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六国峠@ドクター円海山の音楽診療室-無用な営みの、えも言われぬ、この上なき喜び

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没後20周年オーマンディー記念-外伝「考えるな、感じるんだ!!」(7)シベリウス:交響曲第一番ホ短調

 オーマンディーのレパートリーとしてシベリウスの売りは作曲者との親交厚いことが第一に挙げられていたのは昔の話。

 最近の北欧演奏家の世評がメインの風潮ではオーマンディはスルーされている感が強く誠に憂いるべき状況でありなん。
しかしながらも当時良かれと思って行った表現がシベリウスの書法的と特異性を矯正する形あらわれたのは確かであり、今日の流通体制普及における北欧演奏家による演奏の北欧レーベルによる成果が、自然な息遣いな音楽作りにて好事の方々の話題と評価の中心となり、さらに地元ならでは譜面のクリティカルな差別化もあり、その演奏こそ自然であると有り難がる風潮すら作りつつある。

 確かにオーマンディの活躍し始めた当時のシベリウスが晩年高性能ラジオや再生聞を自宅に持ち込み、放送や音盤で自らの作品が演奏されるの楽しみに余生を送っており、その契機でクーゼヴィツキーなどの強い要望で八番を一端書く気になっていた心情も推察され、まだ著名ながら、多くは演奏が無い時代に比較的早く作品を紹介していた遠方の演奏家オーマンディーへの好意的心情もあり、細かい問題以前の話とも邪推もできる。しかしながらオーマンディー作るフィラデルフィアのシベリウスが北欧の演奏および一部の伝統ある英国勢より、低い与える評価を排他行為的に「北欧音楽の愛好のもの」から与えられて、価値を蔑まされることは誠に心外なおもい一入今日この頃でもありなん。

 一つ喚起を促したいのがオーマンディーの演奏に現れる確かに作品には異質なほど器楽的な色彩認めらるるも、さて当該オケの「萎縮したフレージングや管楽器」という現状のオケのテクニック不備を「北欧」の味として誤認しているのは甚だカルトめいた説得力とも思える次第。

 北欧の音楽の受容は?もしかすると今がマーラー受容歴史でいるところのワルターやクレンペラーのユダヤ系というカテゴリーでしか伝導が容認されないフェイズの時代なのやも知れない。

 そして、北欧勢での丁度近代現代管弦楽のダイナミズム立ち返ったサロネンのシベリウスの演奏がネクスト・フェイズであり、シベリウス演奏におけるブーレーズもしくはバーンスタインのような書法的普遍性を刺激的に示しつつあるが、その点での歪曲されない解釈としては・・・?
 あえてオーマンディ側にも問題があるところもあり、スコア演奏法の改変などがあり、たとえば次項で紹介する予定の「四つの伝説曲」での「トゥーネラの白鳥」での練習番号Hでの、流れる川のざわめきが不吉を示唆する弦楽のコンレーニョよるトレモロの背景通常演奏方のトレモロに変更されており、これはカラヤンも同様なこと踏襲しており、この辺作曲者の器楽感覚に忠実ではないことを大いに認めうる問題も当然存在するが、昨今の一部の北欧の愛好家オーマンディ無視はその辺の水準ではに、「豊穣」への嫉妬めいた「偏執」を感じる次第。

 たしかにオーマンディーの演奏の問題を挙げれば語りつくせないが、それゆえシベリウスの魅力も理解増倍する顛末にもなるのは確か(笑)

 それはさておき、ともかくオーマンディーのシベリウスはそんな背景を忘れ、明確で豊穣な色彩でシベリウスの音楽を無心の境地で誘う魅力として再度拝聴することを切に願いたい次第我所望す。

 それゆえにシベリウスとしては、隣国の影響が多く異質な成分が多い当交響曲第一番ホ短調において、北欧勢の演奏が達成できないような、他の交響曲と違う様々ロシアに後期ロマン派等の影響要素の交差倒錯する音楽世界を、オーマンディーはかなり際どく描く、その状態こそが逆説的にシベリウスの独創性の萌芽を剥き出しにする。

 ロシア圧制の国民の隆起風潮もの背景で、シベリウスが模索していた交響的作品ながら、その結果は、むしろドイツ後期ロマン主義と圧制側のロシアのチャイコフスキーとムソルグスキー・ボロディンなどのロシア五人組の影響を多大に感じる豊穣な盛り上がりが、「書法の敗北」を感じさせ、そのあたり北欧音楽の叙情とは異なる戸惑いを生じさせ、さらに終曲の終わりがことのほか、「第二交響曲」の予告編のような気持ちにさせられる。

 この異質要素がオーマンディー/フィラデルフィアの十八番の音楽であることを考えればおのずと結果は見えてくる次第であり。ことさら忘れられつつあるがこのCBSの第一回録音は過激でもある。

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Sibelius: Symphonies Nos. 1

 第一楽章の最初のティンパニニーのトレモロの背景上でのクラリネットのモノローグから過不足無く提示される音楽がやがて、弦楽の高音域トレモロの背景の合図で呼びかけるような、民族古謡的節のある主題が弦楽の提示に導かれう此処の、歌いこみの確かさは当団ならではあり、その後の旋法的な第二主題の推移での、技巧的至難な三拍子の過激なアクセントも極めて完璧であり、むしろ通常は第二楽章の盛り上がりと同じように避けて表現されるところある、チャイコフスキー的なアカデミックさで絵画的な表現に欠くところ無し。そして通常なら展開部の降下する音階の橋渡しが、技巧的に無機質にあるところを、その技巧が余裕の表情を輩出し、音階より音程に興味がある、ロシア五人組のムソルグスキーへの書法的接近を感じ、その後フランスでのドビュッシーとの出会いが契機にある第四交響曲の六全音の先駆、容認の土壌を此処に感ずる次第にもあり、それらが明確に察知できる心地よさと音楽として豊穣さに事欠くことない充実感は素晴らしく、その音楽の低音にピッチカートで終わる呆気なさにも充実をみることの出来る次第。

 第二楽章も朗々と歌われ。次第にチャイコフスキー的な盛り上がりから、半音階的派生が増えて細かくなし、後年のシベリウスが出現するような様を技術な確かな弦楽が克明に追う。

つ続く第三も第四楽章も遠慮のない表現でその相違と異質そして語法の同化する点を、隠すことなく演奏することを敢行する。後半はロシア五人組書法的影響と後期ロマン派のワーグネリズム上でのブルックナー等の影響が濃い音楽であることを再確認する次第である。

 なにか個人的には、チャイコフスキーめいてもいて。ムソルグスキーの禿山一夜の原典版のテクスチュアと同質な民族的な要素がにおうテクチュアあるアレグロを持つ第四楽章はシベリウスでもことさら異質な音楽世界であり、適度なケレンを弦楽の歌いこみのあるところに与えており、もはやマーラーのような別の領域に入り込むが、その美しさは見逃せない当演奏の売りと所見いたす次第にて候。

なお当盤のリマスタ状況も良く明らかにLP時代より格段に落ち着いて聞ける音質にも一端はあるとも思う次第是非ご拝聴。
by dr-enkaizan | 2005-04-04 02:48 | 解説のない音盤紹介
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