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六国峠@ドクター円海山の音楽診療室-無用な営みの、えも言われぬ、この上なき喜び

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タグ:フランス近代 ( 41 ) タグの人気記事

昔はデジレー・エミール・アンゲルブレックと読まれていた。

承前
さて海のネタでかつての掲示板のやり取りで思い出したのは、やはり耳学問が結構展開するターム多かった次第にて候。

 某英国の長老巨匠のドかトかという話にはしまり、ルかリの問題など本筋からもれる場合はそれとなし、殺気オーラのあるレスをして相手を恐縮させてしまい、本意の効果にながら申し訳ない思いしてしまったのは良い思いででもあり、あの頃は全国の独尊がネット上で初めて、各種整合の必然というプロセスにあったゆえの、黎明期ならではだったのだと、好意的にも考えるが・・・しかし、音楽をかたるものであり。承前の言葉を引用すると。
>日本語なんだから別にいいじゃん。方言だってあるんだし。

の如しと同じく思う次第にて候。
 猫でドビュッシースレッドで展開するさいは必ず避けて通れない、逸匠、現行発言での、デジレ・エミール・アンゲルブレシュトも、かつてはタイトルの表記で呼ばれており・・・これも、アンゲルブレックで発言すると遠まわしに、アンゲルブレシュトではとまるで、俄かのような耳学問へ展開して、各種書物でアンゲルブレックで承前だった当方は、あのころの俄かバブル経済が背景に涌いてでたマニア気取りな輩の振る舞いには、少し血管が走った思いでもあるが、しかしながら、日本人のフランス語のカタカナ表記の発展して、ドビュッシーですら昔は、だったわけであり(笑)今の表記を戻せとはいわないが・・せめて 大田黒氏やあらえびすの本とか全盛期の頃の発音は?はアンゲルブレックの表記だったりもすることは、ふまえて各位コレクトのコンタクトは取るほうが、なんか積み上げある箔のある趣味らしくなりはしないかとも、我大いに愚考致す所存にてござ候。

 正直、1980年代前のEMIのフランス音楽のエスプリ第二期にて、評伝でしか知りえなかったこの指揮者の音を始めて知り衝撃を受け、バークレーのペレアス涎し・・・EMIやエラートの管弦楽集やライヴに感激、CD時代にモンターニュステレオライヴに驚嘆して再受容組であるが、なぜかネット世代では?奇妙な耳学問はそれを支配するのか、それ以前の親戚や同興らのコミュニケーションでは、そちらのほうで通用していた次第であり、むしろネット黎明期に、早い者勝ちで発音のとどまらない、様々な慣例や評判を個人的技量で再構築してしまったのではとも、自らも含め反省する問題ではある次第、一概に音楽マスコミが偏向しているのではなく、双方で、つねにコンブアイランスは必要であることは肝に銘じておきたい次第にて候。

因みに1984年六月のレコ芸では巨匠達の時代という特集でジレー・エミール・アンゲルブレック表記で古川登志男氏が丸々1頁記事を書いている次第。まだドビュッシーのサンセバスチャンとフォーレのレクイエムしかディスコグラフィーの復刻が国内ではなされてなく、バークレーのペレアスの復刻希望が書かれている。

内容として簡素だが、父はフランス人で母はイギリス人で母の手ほどきの後、パリ音楽院に入って、(成績がよくなかったため放校)など両親の国籍なども触れており。あとはシュミッドのサロメの悲劇や1920-30年代のスエーデンバレー団(1921)オペラコミック(1924)や劇場そして、コンセール・バドルのコンサート兼任(1924)でのドビュッシーやラヴェルそしてフォーレの演目にか軽く触れ、コンセールバトルーでの1931年のカルメンの成功、1934年のフランス国立放送の成立、そのシャンゼリゼ劇場で1935年の辞任(後任はロザンタール)まで、演奏を週一回放送していた事も言及。さらにその後も客演で同団とは共演して、それらでも、1939での、ティボーを独奏者迎えた演目が評判でありヴィヴァルディーとバッハ(1月)ベートーヴェン(3月)メンデルゾーン(4月)を放送していて、記録があればと筆者がフランス以外演目*にも秀逸な指揮者だったことをもしのび渇望している(笑)。
 そのあと、その物腰と人柄に触れ、演奏については、晩年の円満な人柄の頃で、曲の真髄と魅力を引き出す洗練された指揮と評し、国立放送の指揮者たる所以と賞賛している。
 代表的レコードは当時未復刻ながらドビュッシー「海」(A AB8134(廃盤))そして復刻されたフォーレのレクイエムでの、カップリングのパバーヌが割愛されているのを残念と記述する次第にて候。
 そして締めくくりは当時一年前に音楽院教授を退官したもモラーヌがペレアスを歌いしドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」の1963放送録音のバークレー(当時廃盤)を紹介している。

その後EMIがデュルクレトムソン盤ドビュッシーの録音集成をLP組で復刻、後にCDに・・・なかなか当時のレコ芸は凄かった・・・orz

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関連

*アンゲルの放送録音は戦後では放送素材の音盤LPが放出されおりマニアの糧になっている、一部は承前の家主が紹介しているが、円海山もマーラーのなき子を偲ぶ歌と、ラヴェルのしシェヘラザ=ドとチガーヌを青◎でなにしたが・・・・すさまじい細緻な演奏に聞きほれた次第、フランスはもとよりマーラーは、この頃から歌曲でのマーラーはそれなりに認知されていたのか不明ながら、淡白ながらも、あまりに端的にマーラーのスコアを捕らえている、成る程ドビュッシー同時代の背景の響きを成しえることに、納得させられるものにて候。ミュンシュもRCAにボストンで録音しているが・・・これがあったゆえかとも妄想を書掻き立てるものにて候。
追記

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またあの妖精が
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by dr-enkaizan | 2009-02-05 02:16 | ドビュッシー蟻地獄@円海山編

私は幻想交響曲に憑かれているのか・・・。シリーズ 序

 去年から新年にかけて、なぜか車の中でベルリオーズの幻想交響曲を、聴いている次第にて候。最初は三週連続かそれに近い形で?FMコンサートで出くわし・・・そしてSonnenfleck さんのトピックそれ以後、自分で家にある幻想を幾つか取り替えては聞いている次第。
 元来フランス近代以前は、斯様に夢中に聞くことは、無かったがなぜか、ベルリオーズの浮き足立った、響きの感覚が、移動媒体での体感することで、心地よいのか?不可解也。
 これはある意味「庭は夏の日ざかり」のSonnenfleck さんのトピック
タケミツのジャンクな楽しみ方。に通じるところがあるのではと思う節があり、実は、当該記事のジェモーは昔、通勤の某水色の電車での、最初から東京までのBGMとして、ケクランの萌える茂みとともに、ウォークマンのテープラインナップとしてあったこともあり、夢見のなかで聞くうち、次第に「音量の大きな部分のみの脈絡を求め、雑音から音楽の細部を聞く欲求に代わって、ものすごく、耳が詳しくなってしまって、自宅の装置で純正で聞いたときには、その脈絡の欲求満たされて、さらにジャンクならぬジャンキーな二度ウマ状態に陥ってしまった思い出がある次第にて候。
 今回も車中で聞くうちに、断片的に聞く、幻想交響曲の脈絡の欲求の受容体が脳内で形成された故なのか・・・・・ミュンシュの三種類そしてアンセルメ・・・マルゲウィッチにそしてクリュイタンスにアルヘンタそしてエトセトラ状態になりつつある。

 特にパリ音楽院管弦楽団の二種類アルヘンタとクリュイタンス国内ライヴはどちらも、おのおの異なる熱狂が渦巻くものであり、絶品である、前者は何かデッサンが狂っているような、躁状態に常に向かっている演奏であり、それは第四楽章の断頭台への行進で、スコアにある反復記号を守っても、古典的なフォルムを志向せずに、まるで突然、時間が引き戻される、ような感覚を与え、意図は不明なれど、その演奏内容との相乗にて、非常に幻惑的もしくは幻覚効果を奇しくも生み出している。
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 後者は絶好調の自身に満ち溢れた演奏であり、的確に抑えつつ、次第に演奏者が興奮して加熱してゆく次第で、実演でこれだけのことがおきていたのは、まことに奇跡であり、その記録が良好にアーカイフに残されたのも奇跡にて候。
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(気が向いたらつづく)
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by dr-enkaizan | 2009-01-16 00:49 | ベルリオーズ

仏法僧の誤植かと思った香具師約一名のムーア風狂詩曲

承前ナンシー

 ブログ妖精ココロのニュースネタはスルーすることが多く、二次元に申し訳ない(注)ところだが・・・ww思わず今回は・・・・色々考える。

 とにもかくにも・・・女性の独立や民族の慣用寛容という点ではフランスならでは。
 
 サルコジ氏の奥方は、スペインの作曲家アルベニスの系譜であり。

当該女性ダチ女史の国はサンサーンス*が、軍隊が闊歩する植民地時代の情景を組曲で描いているアルジェリア。
 
 そしてフランスは音楽史に残る女流作曲家も多い国でもある次第。
あらゆる寛容もあるが、歴史背景だらけの人物の素性でもありなん。
*当該作曲家はナイル川からアフリカ周辺を愛しており当組曲を書いたのは1879年、1921年にはなんとアルジェリア旅行中に没する。そして他に、ピアノ協奏曲史上上位に属する内容と考えられる、ピアノ協奏曲五番は当時は、そのナイルの情景に基づき「エジプト風」と名づけられる。
 しかしその興味の範疇はアナクロだったらしく・・・・。曲は前奏曲「アルジェリアの街」 やムーア風狂詩曲  夕暮れの瞑想 とアルジェルアの民族音楽テイストで続けられるも、圧制した植民地支配を統制する、軍隊の勇壮を描いた・フランス軍隊行進曲でおわったりもする次第。

また

Saint-Säens: Suite algérienne / La Princesse jaune

Chandos


当該曲カップリングの「黄色の女王」はジャポネズム黎明期に、若き作曲家が日本の絵葉書から得たインスピレーションと一部の伝わった日本語を使い、自らの最初のオペラに仕立て上げた、驚異の作品ながら、あまりにアナクロな陳腐な日本描写がたたり、暗黒史扱いになっている不遇の作品であり、この作曲家異国趣味の本質を理解する手がかりになる次第にて候


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by dr-enkaizan | 2009-01-13 20:13 | 雑文

牧神を巡り巡って プレヴィンの牧神の午後への前奏曲

承前
鎌倉スイス先生の恒例の季節物の合間に、直の扱いでの、ヂュカスのドビュッシー追悼曲に始まり、牧神の午後へと話が展開する、なかプレヴィンのロンドン交響楽団の演奏へ言及が進み、あまりに円海山的フェバリッツの琴線に触れたところで、新年早々嬉しい限りな次第にて候。


 実にプレヴィンにとっての三度ある牧神の二度目にあたるであろうこの音盤は、EMIの最初のデジタル録音であると同時に、メジャーレーベル史上最初のデジタル録音による牧神の午後であるはずである。
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 LP期初出のころには、その録音の様子をレポートしたライナー、付属されており、医療用のデジタル機器転用の録音ついての困難と、その画期的な成果に、ものめずらしさ、コンソールに詰めはいった楽団員たちが、そのスピーカから流れる管楽器の第一声の生々しさに感嘆した様子などが伝えられている次第で、プレヴィンもこれが一秒に数万回サンプリングしているなんて信じられるかい?と軽い冗談問答すらしている。

その初出のジャケッド初回CD化でも継承されており、スペイン調のアーチがある庭園が、南欧の日差しあふれる、印象派絵画で、イベリアのある映像や夏の草むらの牧神を何かと遠くから暗示する雰囲気あるものでありなん。
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 さて当該演奏は、フランス的というより、あくまでも国籍はない、純粋な音楽表現の模範を示すものであり、ロンドン交響楽団の適度な厚みのある音彩、適度な抑揚に合わせたディレイヴィブラート、ノーマルで深いホルンの音色など、フランスローカリティーとは極北の位置にありならも、見事なフランス近代音楽の書法的効果を的確に捕らえている次第。
 己も含めて、わが国のエスプリだニュアンスだと、お定まりの単語で、お国物の演奏家をありがたがる、この演奏は、それ以外でも成立しうる、視点の定まった路線の存在を痛感させられるものにて候。
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by dr-enkaizan | 2009-01-07 23:48 | 解説のない音盤紹介

オーリック:コクトーオルフェの付随音楽新録音

 近年その音源の一部が姉妹筋のナクソスに移行し、活動が顕著ならざりて、解消しつつあると思った、珍曲の登竜門マルコ・ポーロレーベル・・と思いきや、クラシカルな作曲家の映画音楽のスコアの音化に勤しんでいたらしい次第にて候。

今回はそんな中でも。フランス六人組の一人ながら、著明な三人の影に隠れがちなオーリックの映画音楽であろ、まあ斯様な世評をよそに、オーリックはむしろ六人組の中では一番映画音楽に特筆すべき成果をのこしたのは、彼が精力的に作品を作る時代が、戦後のトーキー以後映画であってのことでもある。

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オーリック:オルフェ/ルイ・ブラス/山師トマ

 特に旧知のジャンコクトーとの完備なるコンビネーションによる彼の映画につけられた音楽は、その当時の貧しい音質からも垣間見られ、一度優秀な録音で聞いてみたい欲求に駆られることが多く、今回の幾つかの音盤はそれを満たす内容になっている次第にて候。

そしてこの音盤での聞きは、最後の最後での切ないどんでん返しで元祖ツンデレだったと解る、の死の国の王女”(マリア・カサレス)の美しさと、死なせてしまった妻を戻しに、その女王と死の国と現世を往来するジャンマレーが美意識溢れて演ずる詩人が、見ものだった白黒作品コクトー作品のオルフェのサントラに始まる。
その音楽は、デリケートな表情豊かな弦楽。しかいドビュッシーやラヴェルに近いが、むしろトリルやトレモロなどの使用は前者の表現の起伏は持ちながらも、ありかたはサティのソクラテスの近親のような静寂を志向している、そして木管の悩ましいモノローグは時に跳躍や不可思議なオギュメンンス嗜好音程移動だったり半音階的になり、金管と合わさりの抑圧的にて抑制的な葬送の旋律として、旋法的にもあらわれ、そしてハープやクロッケンシュピールの音彩や、葬送の示唆である小太鼓のトリルなどの効果的使用というように、多彩な語法に支えられ、地味に(この作曲家として隠れた側面であろう)オーリックの折衷的特性が生かされた内容で展開する。

このほかに後半は恐るべき親たちや山師トマにてオンドマルトノなどが使用され、オーリックらしい気の聴いた劇伴奏堪能できるが、各位耳にて確認されたし。

マリア・カサレスはツンデレキャラにしてみたい
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by dr-enkaizan | 2008-05-02 04:34 | 劇伴奏

フローラン・シュミットのバレエ「小さな眠りの精(小さな妖精は目を閉じる) Petit elfe Ferme l'Oeil 」

おそらくおおよそ誰も食いつかない、フランス近代音楽の真髄ネタをここに始めてみる次第にて候。
 それはフローラン・シュミットのバレエ「小さな眠りの精(小さな妖精は目を閉じる) Petit elfe Ferme l'Oeil 」にて候。
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当曲で今
私たちは20世紀に生まれたのs_numabe氏の記事が熱くそれを語っており、
承前1長年譜面でしか知れない謎の曲の仔細が解りつつあり、コメントで円海山も大いに盛り上がりさせてもらい、さらに最初に言及しているバレエ「小さな眠りの精(小さな妖精は目を閉じる) Petit elfe Ferme l'Oeil 」をアンドレ・エレが絵本にしたもの(垂涎物)について、少々仔細を述べておられ
承前2

承前3
それに大いに刺激させられ思わす今回の譜面からの言及を連作で試みる次第にて候。

作曲家のシュミッドはWIK引用にて言うとフローラン(フロラン)・シュミット(Florent Schmitt, 1870年9月28日、ロレーヌ・ムルト=エ=モゼル県ブラモン(Blamont) - 1958年8月17日、ヌイイ=シュル=セーヌ)はフランスの作曲家。
という扱いであり1889年にパリ音楽院に入学、マスネやフォーレに学んでおり、同時期に学んていたラヴェルの兄弟子に当たり、ラヴェルとは深い親交関係を持ち、ラヴェルに指揮者のアンゲルブレシュトや音楽評論家M.D.カルヴォコレシ、ピアニストリカルド・ビニェスらと芸術サークルアパッシュを結成して、最新の音楽について様々な草の根活動をしたとさるる。
 それは時に激しく、最右翼のシュミッドは、ラヴェルのスペイン狂詩曲の初演時に、アンコールとしてマラゲーニャが演奏された直後に、好意的でない平土間のアカデミズム層をやじり「何度でも演奏してやれ平土間連中がわかるまで」と野次を飛ばした次第にて候。
 また師匠の一人ビュッセルの証言がその著書に記載されており、ローマ大賞受賞後の作品詩篇47の初演の、その音楽の爆裂ゆえにひるむ打楽器奏者を首にして、代わりの演奏者を探す混乱した様子などが記載されており興味深い。

 また日本で同じビュツセル門下だった池内 友次郎(1906年- 1991年)氏の回想とされる話に、当時国家留学生でそれなりの住居に住んでいたゆえに、そこの風呂目当て、放蕩か?貧乏学生で?自宅の風呂が入れない事情になったシュミットが訪れて、風呂を借りていったという、伝説が伝えられている次第にて候。
 そんな彼はその後、詩篇47から飛躍しサロメの悲劇そして戦後パリの音楽の重鎮へ駆け上るのだが・・・そんな円熟期に書かれたのがピアノ連弾曲「小さな眠りの精の一週間」1912作である次第。
曲はデンマークの世界的著明な童話作家アンデルセンの童話「眠りの精のオーレ」を題材にした、そのオーレの物語で少年のヤルマーに眠りのせいオーレが語る一週間の眠りに付くお話をモティーフにしている、その辺は上記承前を参照して欲しいが、ここに引用すると、

1. 二十日鼠の婚礼……原作では「木曜日」
2. 草臥れたコウノトリ…… 「水曜日」
3. 眠りの精の馬……「日曜日」
4. お人形ベルタの結婚……「金曜日」
5. 石板の文字のロンド……「月曜日」
6. 絵のなかへの散歩……「火曜日」
7. 中国の雨傘……「土曜日」

というものであり原作の曜日を変え最後の中国の笠は原作に手を加えた筋書きになっておりこれも承前先を参照して欲しい次第にて候。

その後1924年に前奏曲と幾分の間奏音楽(恐らく*)を付け加えバレエ音楽に改変され(『小さな眠りの精 Le Petit Elfe Ferme-l'Oeil』作品73、1923)となり新たな作品として生まれ変わり、そして翌24年パリのオペラ=コミック座で初演される。

このあたりを譜面は如実に示しており、前書きに、一覧があり
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その配役キャストが掲示されている次第
その拡大は以下のとおり
タイトル
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中の左
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中の右
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そして下の演奏者・・
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なんとアルベール・ヴォルフであり・・・今となってはラヴェルの演奏もクリュイタンスあたりに淘汰され、デッカのシャンタパルティエあたりの管弦楽が廉価で発売され名を留めるほど認識が軽くなっているのがなんともな・・・?次第。

 そして曲はおそらくトレモロを交えた、同作曲家のアントニオとクレオパトラの前奏曲や夢想を彷彿させ、映像第二集や前奏曲集のドビュッシーを彷彿させる前奏曲ではじまる。
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 そしてアルカイックな三拍子の舞曲で二十日鼠の婚礼が始まる
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そして曲がおわると間奏が追加されており?
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次へ進みどう各曲曲想の違うような導入や回想がなされており、バレーとして情景音楽を添付している考えられるのだが、その辺が原曲の解説には不足しているか、原曲も接続音楽があるのが、原曲譜面を所有していない円海山には如何しがたいorz・・・
 さて中国の笠にて最初の部分すこしのところで
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歌詞のある譜面が出現し、これはバレーでは歌が付いたことを示唆するのでと思われる。
まあリクエストあれば続行するが、この辺で一端終わり。

 真の知られざるとは音に記録されていない譜面も含めるとまだまだあることをしるべしか?
この路は茨なりや。うーんorz・・・・・。
追伸コメントでは二台ピアノと言ってましたがピアノ独奏譜面でしたこと此処にお詫び申し上げます。
追記’前奏曲を嘗てのデーターを補完してmidiにする、
これ
前奏曲
しかし、この譜面事態バレー用の簡易編曲の譜面であり比較的未校訂と思しき故か、臨時記号の整合性が多少怪しいのと、久々の読譜が災いし1:20以後の半音階部分に舞曲や中華音楽風のフレーズが混ざるところがまだ検討の余地あり(*)、あえて恥を偲んで、この曲への注目を喚起したく、ここに現段階の状態を提示する。



最初はドビュッシーのビリティスの歌や六つのエピグラフに出てくる同音トレモロ音形に始まり、同じく前奏曲集の枯葉や花火を彷彿させるフレーズが現れ、この先の物語を示唆するようなライトモティーフが、シュミッド独自の半音階的までに、拡大された旋法的和声法のけだるい中に、舞曲やお囃子のような旋律が混じる、ある意味この箇所は、後輩ラヴェルのこれに先駆けること十数年の作品、マメールロワのバレー版の前奏曲と言う先駆例に類似しており、依頼主の要求従い踏襲したかが想定できる、しかし手法はシュミッドのラヴェルへの密やかな対抗心をうかがわせる。

 そして冒頭のフレーズが盛り上がり、次第に熱を帯びてゆくが、此処は作曲者の詩篇47を彷彿させる箇所などがありこれも興味深い、そして一瞬軽妙で神秘的な音楽に導入されるが突然ポリトナールの不協和音のトリルの咆哮で中断、そしてドビュツシーの牧神午後冒頭に出てきたホルンの動機と酷似したフレーズが朗々した雰囲気を形成しする、おそらく題材の「ヤルマールの夢」と牧神の夢想への導入を捩った意図が強いのではと考察される、自身の作品の類例として、混沌に浮き出るあたりは 夢想 、そして禁欲的ながらエキセントリックな雰囲気は アントニーとクレオパトラでの前奏曲 、そして倒錯した盛り上がりなどは ディオニソスの祭り あたりの関連を示唆したい、そして短調の和音により、次の二十日鼠の婚礼になるが、それはまたいずれ。

*明らかに臨時記号のシャープ・フラッドの解除関係が怪しいようであり、
フレーズの前後の関係から推測すると和声的不整合になり、さらに色々怪しい、件の箇所も果たして中国の笠あたりを意識した中華風なのか?、単なる誤読の結果なのか?どちらか判別しかねる、恐らく管弦楽の譜面もしくはパーティセルに近い段階作者自身もしくはそれに近い立場の正規版としては初版譜面であり、なにか管弦楽スコアあたりは承前での前提が?当譜面の演奏には付きまとうのではと思われます。(教えてエロい人(笑))

尚一部譜面の解像度がソフトで対応できない箇所が生じ、適当にピアノビューででっち上げたグリッサンドや、メロディーラインが単音では弱い箇所は、オクターヴ補強ししたり、トリルの和声箇所は、むしろ管弦楽法でのやり方を踏襲して想定で変更しております

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by dr-enkaizan | 2008-04-30 23:50 | クラシック

ロドリーゴの標榜しつつげた音楽は何なのか?

 アランフェス協奏曲で知られるホアキン・ロドリーゴはそのイメージが付きまとい、デュカスやモーリスマニュエル門下でのフランス近代書法の多彩な技法を熟知している作曲手腕の持ち主に関わらず、件の協奏曲の評判が引きずり、スペインの内乱期のナショナリズムのころの作品が一人歩きしており、ギターの復興および一部の作品での民俗イデオムの書法から作風に、アウトサイダー・アートの如し天然で表われているかのような、評価言説がまかり通る嘆かわしい現状である。

 しかし、実際ためしにナクソスの管弦楽集成を一巻から追って聴くと、年代順に近い配列で聞け、不幸なことに、アランフェス協奏曲が奇跡だったかのように・・その近接の作品があまりに、一つ考えないで聴くと、シンプルな新古典的で発想展開に乏しい音楽一見評価しかできないものが羅列され少々つらいのは事実である。

 実はこの集成は後ろの番号から聞くのと前の番号から聞くのとでは作曲家の感慨が180違ってくるという奇妙さを具有しする次第にて候。

最近ではこの袋小路に鎌倉スイス先生も嵌っておられるようなので、ここに上記提言と気になることとあるヒントを書いて見たい次第にて候。

 まずこれらの症例を一考して欲しいのは・・・ロドリーゴのアランフェスの頃の時代背景であり、スペイン内乱期に書かれた国家を国中の人々が考えていた時期に、その気運のなかに作曲家は幸か不幸か居合わせたことであり、同時期のナチスのまかり通る独逸でのナショナリズムでのカールオルフの単純主義や、ソビエトでの粛清下でのショスタコービッチやプロコフィエフそしてモソロフの平明な書法への転進と会い通じるものがあることである。

 これはその危うい社会的気風を転機にしたイタリアのレスピーギにも、復古主義的題材にイタリア古楽の復興を目論んだ新古典編曲作品がその現れであり、ことさら鎌倉スイス先生もロドリーゴの上記作品群への鋭い近似を指定している次第である。

しかしながら、当作曲家が音楽書法的に後退して、単に民俗書法を表出する作品*を輩出することを生涯にわたり、標榜し続けたといえは、敢えて「否」といえるだけの作品も、第二次大戦後の70年代の作品に存在する。
(*) また此処で形容に出てくるグリーグも、その表向きとは違う書法的先鋭より民俗イディオムを優先したかということも大いに疑問を投げかけたいが話がそれるのでいずれ。あえて叙情小品集いくつかの音階と音程への大胆な試みを示唆するに留まりたい。


 その書法的先鋭標榜するかのような(*注)・・・代表格は、初期の交響詩「青い百合のために」の民俗素材をコラージュして、管弦楽の即物的表現の混在するカオスへの試みであったり・・・・上記年代のフルート協奏曲の「田園協奏曲」での第一楽章の累積四度の音程を楽想の骨子にして、各種旋律を結ぶという機知に富んだ発想は?もはやアランフェスでの素朴な民俗素材は表出しての演じられていたのか?疑わしくなるほどの作曲書法の職人芸を感じるものに候。

(*注)追記’両作品の時期を言及した記述がごっそり抜けていたため、追加


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8.555962 ロドリーゴ:管弦楽作品全集 6 「交響詩青いゆりのために」/他

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BIS-SACD-1559 ロドリーゴ:田園協奏曲/イベール:フルート協奏曲(ベザリー/サンパウロ響/ネシュリング)
この書法的発想は無論アランフェス以後の成長とも、情勢の変化の反映とも・・・いえるが、それらを踏まえて、大胆さや霊感力の事欠いた作品もある意味合から、むしろ仕事の質を加減できる手腕は持ち合わせていることの証とも、円海山的には所見さるる物にて茣蓙候。
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by dr-enkaizan | 2008-01-08 01:43 | クラシック

何を新年初聴きとしてみるか?

 さてプレートルの明確に違いがわかるニューイヤーに刺激をうけ、ここは一つフランス近代からロマン派の間のものが、無性に聞きたくなる次第で、さっそく思考をめぐらしてみる。

 なにかピアノと管弦楽ものをしかも、フォーレのバラードの路線で品位を保ちつつ、力強い表現をしめす、というような事で想起して、マスネーとその弟子のピエルネのピアノ協奏曲のアルバムがVOXにありそれが、NMLにも存在しており、それを新春の早起きにがてら聴き二度寝を敢行。
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CDX-5110 FRENCH PIANO CONCERTOS

 前者は第一楽章から九度の抜けるような爽やかな分散和音からとオケの対話、そして主部のスルルツアンドまで品位と豊穣の音色がちりばめられ、ラルゴの安息のコラールはまさに、その装飾段階にてフランスの高音重視のバスの軽妙さの美徳を一心に受け止めることが出来、一般的にフォーレの括りで語られる品位について、タイスで通俗にされているマスネーのそれ以外の作品まで拡げられることはなく、一般の聞き手は語らないあたりに、いかにフランス音楽をエスプリや人名で先入観や雰囲気で理解してきたことが解る次第にて候。
フィナーレは多少エキゾティクでありマスネーの異国趣味であり、弟子のドビュッシーのローマ大賞受賞作の「道楽息子」の参考になったのではというフォルムを多数含んでいる。
 そしてピエルネのそれも、丁度、友人にて同じ門下の同期ドビュッシー幻想曲と比べると幾分古めかしいビルトオーゾな楽曲の様相で、まるでサンサーンスや師匠の影響下にあるも、その力強さ才気そして時折でてくる旋法性あるメロディーラインはピエルネの個性の萌芽を垣間見る次第だが、後の作品の片鱗というより、非常に優等生的な出来栄えであり、その傷のないところが多少興奮を削がれるが・・・・今後多くのコンサートレパートリーなる聴き栄えは約束できる`次第にて候。


演奏はオケが多少荒いが、非常に健闘が伺われ未知よりの楽曲を斯様に聞かせること自体有り難い次第、

なお二枚目の内容も言及したいが本日はこれまで、さて・・・如何に。
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by dr-enkaizan | 2008-01-02 05:17 | クラシック

マルティノンの影武者?デュトワ バッカスとアリアドネ ルーセル組曲へ調

さて鎌倉スイス先生や、庭は夏の日ざかりさんのところでまとめてコメントしたルーセルの音盤でデュトワのバッカスとトアリアドネの録音について四方山を。

 デッカにアンセルメの録音したレパートリーを意識した、ロシア・フランス近代音楽録音をモントリオール交響楽団と次々と録音していた、ヂュトワだが、なぜか?エラートにオネゲルとルーセルのレパートリーは態々デッカにレコメンデンションをとって交響曲全集+管弦楽を録音したのは、大いに不可解な音盤録音史上の謎として印象付けられている次第にて候。

 それ以前もデュトワはエラートニはLP期にストラヴィンスキーの狐他の小編成の作品の録音があったが、現在は多少忘れられた観があり、いまだ未復刻らしいようである、それらの契約の延長上にこれらが位置していたのか、それともデッカ側で難色があったのか不明なれど、オネゲルとルーセルのマーケティングについてはそれなりに冒険であるのは窺い知れるような事情が想像される次第にて候。

そしてルーセルの管弦楽はバッカスとアリアーヌの第一組曲+第二組曲に組曲へ調の組み合わせでオケも交響曲全集のフランス国立とは違う、パリ管弦楽とのコンビでだされている次第である。
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しかし評論は多少の賛辞をしながらも、一般の知名度人気としてはルーセルは今一であり、世間から一時期廃盤として消え去る不遇となる。

 要因は?人々のデュトワの神経質な個性がパリ管弦楽団でどのようにという興味に反して、あまりに立派なオードックなオケの音色であったことがあり。
 後述の興味深いパートの強調なども滅多に聞けない部分がある拘りなど細部にあるのに関わらす、全般に堂々と鳴り響く熱いオケの音色に人々が興を失ったというなんとも今にしては贅沢な理由であると想像され、20年前にこの人物の、はた迷惑な固定概念イメージいかなものだったのかを推し量ることも出来る事例にて候。

 円海山で的に思うに、多くの者達が無防備にドビュッシー・ラヴェルをこのデュトワで推し進めるが、それは非常に愚かしいことであり、むしろデュトワの解釈はフランス近代音楽の伝統に立脚するのでばない、賛辞されるべき、その異質な軽さを武器に当該楽曲の再提示を示したところがあり、デッカの望んでいた路線上でのアンセルメを彷彿とさせる明晰な要点を押えた音楽作りでという要素があったにせよ、決してそれらの相違を踏まえないような、押し当てぶりはその蒙昧の度が知れる事態になりかねないと警告したいが、これはいずれの機会詳しく仔細例を挙げて・・・むしろ借りてきた猫のように、オケ自体パワーを信じて、パリ管弦楽団を振るデュトワのこの演奏こそが、この指揮者本質を知る上では重要であり、これも是非拝聴してもらいたい次第にて候。但し彼のドビュツシー・ラヴェルより曲の難易度は補償しかねる所にて候。

 そして時はたち廉価ブームの波に乗る形でワーナーに移籍したエラートは二名組のウルティマシリースとしてバッカスがよみがえるのは今の好事の方々の記憶にあたらしい。

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 しかしここで奇妙な事態が起こる、なんと当該に二枚組のブックレッドの表記を見る限り、ジャンマルティノンのLP時期未発表で、三枚のの撰集のCD化にも漏れたと思しき、組曲へ調の音源が表われる。
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なんとも見事な出来栄えで、その交響的表現は時に熱を帯びると、おもっていたが、某掲示板でそれはマルティノンの音源ではなく、上記デュトワの音源である指摘がなされるしだいで、そのブックレッドを注意深く見ると。

一枚のディスクで演奏家変わるごとに太字でつけられる演奏家とオケ表記なのだが、当該組曲はマルティノンが二回出現しており。

これを見る限りマルティノンであるかのようだが?
右下矢印部分をご覧になると 作品番号を当該とする録音年代が書かれており。
1986年以下略となっている・・・・
要するにマルティノンの死後10年後の年代ある。

そして肝心の音はウルティマのほうが多少高音域にクセがあり、違うように見えるが、表情付けは似通っており、仔細は言及は今回は省略するが、タイムの微妙な違い、これは前述国内発売時のデュトワの録音データーを見ると、
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同じ1986

おそらくデュトワの録音と結論がつけられる可能性が強い。

さてこの辺で詮索は終わりにして。

この音盤は非常に、パリ管絃楽団の機能を信頼したデュトワのワンランク上の、ささやかな拘りがあり、マルティノンを彷彿とさせるような豪快な表現に徹している組曲へ調を含め、全般に渡り丹念きくとスリリングなものである、筆頭はバッカスの終曲のバッカナールのワルツ部分の確保部分での背景のトランベットの華やかな、三連音による音階の上下が、見事に美しく演奏されており、これは多くの名演奏での聞こえることは稀なものであり、しかしルーセルの必然を感じるものであり、この辺の聞き所を見事に押えきるあたりにも、(16.:43)
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この指揮者スコアリーディングと言う点での信頼が、氏の一般に認知されるフランス近代音楽の華やかにとか爽やかと言う、在り来たり美辞麗句よりも、重要であるポイントであることを喚起しておきたい。

さてバッカスに絡む皆様には是非。
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by dr-enkaizan | 2007-06-28 00:32 | 解説のない音盤紹介

ケクラン:管弦楽伴奏つき声楽曲の合間の管弦楽曲


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CD93.159 ケクラン:管弦楽伴奏つき声楽曲
KOECHLIN: Vocal Works With Orchestra

年末と連休好例の常連VIPの方々の来訪があり、その中でストロング小林少年様が言及していたヘンスラーのハインツホリガーのケクランの連作規格の件で。

 実際フンガロトンのバルトーク大全集とこのヘンスラーがなければ見向きもしなかった希ガスにとここに我告白する次第であり、それほど執拗にリリースされるヘンスラーのケクランネタに正直、ついてゆけないもどかしさがあったが、それを一気に解消したのはこのNMlでもあったともさらに告白したい。

さてこの管弦楽のシリーズの補完ともいえるべき今回は二枚組みであり、ケクランの管弦楽伴奏の歌曲と管弦楽の小品をフューチャーしているほかに、フォーレの楽曲をかれが補佐編曲した一曲を含むものにてそうろう、多くのレビューサイトが言及するとおり、今回は初期の作品も含み1910年代のワーグナの影響がかすかに残るドビュッシーイズムの作風の作品様式で締められるが、その透き通る緻密な結晶体のような、あるいはエーテルのような、無色透明な管弦楽法は紛れもなくケクランそのものである次第にて候。
 中でも圧巻なのは「若い娘の想い出に捧げる葬送歌」であり、フォーレを近代化した旋法的で切ない和声的モットウと、葬送の行進の歩みに朗誦的合唱と独唱そして鐘の音が絡み、耽美的にしかし何処となく達観し眼差しで音楽は進まれてゆく、和声の転調とポリコードでの渋い不協和を深遠に響かせるところや、後半の暗い盛り上がは弟子筋のプーランクと「六人組つながり」のオネゲルの典礼風交響曲の第二楽章を先取りした雰囲気もしくは?おそらく存在は当然知っていたであろう生徒筋の問題女児?ブーランジェの詩篇のような面持ちをもつ。題名も意味深であり「ケクラン?若い娘となにかあったのか?」と言うぐらいのめり込む勢いで考えさせる次第にて候。

 そして二つの交響的詩曲から一曲と古風な練習曲という初録音の楽曲であり、練習曲はおそらく・・当時としては、予先見に満ちた内容のオーケストラの表現のデッサンが聞ける次第である、その第一楽章は下降する音形に和声が絡み三度進行などもあり、まるでフィリップ・グラスの渚のアインシュタインの先駆のような様相、第二はクロッケンとピアノそしてハープと撥弦と金属系のリリースの長い系列組み合わせからポリトナールな弦楽和音がそれを補足して、歌われる、そして弦楽や木管の瞑想的歌のような第三楽章で静かな瞑想で曲を終える、誠に説得ある構成であり、これはルソトワフスキーやストラヴィンスキーの練習曲ならび、三大オケ練習曲としたいような気も・・・。

さてもこのほかに燃える茂みやペルシャなども紹介したいがこの辺で。
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by dr-enkaizan | 2007-05-03 02:04 | 解説のない音盤紹介