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六国峠@ドクター円海山の音楽診療室-無用な営みの、えも言われぬ、この上なき喜び

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タグ:ストラヴィンスキー ( 13 ) タグの人気記事

引き続き少女椿はペトルーシュカの夢を見るのか Aパート(3)

さて三回目ついてける人だけ見てください・・あくまでもこの台詞は康代さんのキャラもはいってますので、素では捕らえるのは止めてください。wwなお多少未校正ですので記述の妙なところは、いろいろ気がつき次第差し替えます。六ページあります
追記 多少、写植で行ごと落ちていたところを、肯定し校訂。orz

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by dr-enkaizan | 2009-04-12 10:23 | 康代さん

ストラヴィンスキー 逮捕時の写真の件

今回そのタイーホ時の写真と思しき一枚がここにあるので、・・・
頭にHつけて承前
ttp://tablaman.wordpress.com/2007/10/28/i-am-not-a-composer-of-music-i-am-an-inventor-of-music/

ストラヴィンスキーがアメリカ国歌星条旗を編曲した作品は今はティルソントーマスの録音が聞ける次第にて候だが。
発表と同時に、国歌の編曲を禁止する当時のマサチューセッツ州法に触れて譜面を押収され、逮捕されてしまっのは、国歌の薀蓄話として伝わってる次第


なんか情け容赦ないアングルで・・・・ただの人相の悪い変な移民の親父に見えるのがなんとも。
これをジャケットした音盤はあるのだろうか?

ストラヴィンスキー・イン・アメリカ

ロンドン交響楽団 / BMGメディアジャパン


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by dr-enkaizan | 2009-04-06 23:59

引き続き少女椿はペトルーシュカの夢を見るのか Aパート(2)

さて前回のつづき、今回は、バレーカンタータ結婚の話が少しでますが。
正直、言語が音盤によりまちまちなのは悩ましい次第。
 さてブリテンとプーランクは彼女達はなにを選んだのか。
想像したらコメントキボンヌ。

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by dr-enkaizan | 2009-04-02 22:21

少女椿はペトルーシュカの夢をみるか?-1- Aパート(β版)

 さて色々飽きる中断おおい、康代さんシリース。懲りずに、相変わらずネーム写植に毛を生やした落書きでもう一ネタ(苦笑)
 おそらく一番古いであろう、着想ネタであるペトルーシュカ版問題の件。
さて構想はおそらく三年はかかっているが、なんとも酷いまとめ、そろそろ形にしてみようかと着手中。
最初のプロローグ3ページあたりをお試しに。これから始まるのでたいした内容でないことご了承。
追記、まとまりを考え追加して4ページにした。
さて準備に1911年版はブーレーズの旧音盤で
1947版はレヴァインとかを用意してくれると作中に使う予定なので・・・・。

私信おかさん片菜さん借りました・・・・ww。

なお今回のタイトルの由来は?個人的にはブレーズの聡明で迫力あるもの、自作自演での克明さやレヴァインのようなキャッチーでカラフルな演奏を校訂しつつ、アンビヴァレントにペトルーシュカの哀愁が、丸尾末広の劇画・・・少女椿しているような、フリークな見世物小屋するような演奏をも望んでいる・・・・・その点では、抵抗はあるがクレンペラーの演奏あたりがそれに抵触していると思う次第にて候。
さて皆さんは?版云々はここではおいて置いて、どうでせう。

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by dr-enkaizan | 2009-03-30 00:20 | 康代さん

ジェームス・レヴァイン ストラヴィンスキー/春の祭典

ストラヴィンスキー/春の祭典 ジェームス・レヴァイン/メトロポリタン歌劇場管弦楽団

当曲の演奏でこれほど、スコアに書かれた音を無駄にすることなく、なおかつ即物的にしかし抑制とは無縁に引き出した、
いや?というより放り出した演奏はめったにない次第にて候。
 それは、春の祭典の理想を求めるカルトな響きへの妄執が実願したかのような、趣であり、本来はある程度抑えるべきすべてが白日に晒されすぎて、受け取る側が飽和する感覚を引き起こし、
あまりに乱雑・未整理*にも誤解されかねない状況を呈し、演奏の充実にも反して、世評は軽んじられている次第。

 *確かにテイクは少ない録音で、あいまに演奏者の雑音なども入ることから一発取りの長いテイクが想像され、録音場所のアコスティークも悪いところで、音盤の作られ方も含め乱雑な部類には入る。ジャケッドデザインも風忍調のサイケトランスアート調でありこれも一因か?

 しかし、との巧みな音色はそれらの批判では見逃しており、多くの理想的一例がいくらでも指摘できることがある、たとえばトラック20の冒頭から「敵対する村との戯れ」の最初のティンパニと弦楽のずれた刻みにと、フレーズが交差する箇所での、ティンパニに合わせられたテューバのバランスは絶妙であり、メーター旧録音やストラヴィンスキーの自作自演ステレオなどのテューバやその逆のデービスやブレーズなど、両者の存在のいずれかにクローズアップされる演奏に付きまとう不自然はなく、ティンパニーの音に被せられた必然的音色音量の意義すら感じさせる次第である。

 今回鎌倉スイス先生の春の祭典トピックのコメント途上で推奨せずはいられなくなり、トピックする次第。
 昨今のレヴァインの注目の低さは・・氏のプライベートの様々な要因?や、一時アカデミーな話題の中心たる、主要オケから外れて、しかもレコーディングから遠ざかった要因もある。さらに確かにフランス近代辺りの音楽では、かなり厚ぼったい印象も否めないところであり、表情を深くとってはいないがグラママラスな音が鳴っているあたりであり、さらにロマン派以後はその裏付けは昨今の学術系の歴史的裏づけという、怪しげなトレンド的擬似音楽史的実証想定のような刺激的な付加価値もない、旧世代の意義の範疇にとどまるとさえとも、認識されてしまっている現状であるのも事実で・・・・・情報媒体の発展の結果、今の聴衆が感傷的要素、上記刺激要素にどっぷりかぶれ、常に安定している豊穣な音を求めていない傾向で、個人的な嗜好で安易に聞きところらしき印象を操作流布するなか、なかなか平均的に鳴らすレヴァインの玄人的な傾向に刺激を見出せないあたりもある。特に日本ではその傾向が強く陰鬱に、もしくは異形に突出した特長がありがたがられるのとは袂を分かつ傾向にある。故に氏の演奏の斯様さが・・・・・
 深みや憂いや影という日本人的感性の極北であるのは確か。しかし、昨今の未達成水準の演奏を、印象操作交じりを?マイナーであることを新味覚と誤解する向きにはこの演奏を再度深く聴いて、何たるカを思い出してもらいたいこと事趣味がスノップする向きに警鐘しておきたい次第にて候。
 奔放を嫌うを良とするのが蔵人の好事の証としている勘違いしている輩が多いが・・・さにあらずや?
 ストラヴィンスキーの鐘楼発言を捩って語るとしての、レヴァインの春の祭典の意義は?スコアのメティエこそ突かれるべき鐘楼の鐘であることを、もう一度思う起こしてほしい主張に他ならない。感じるのは自由だが、つき方が悪い鐘楼の音は遠くまで聞こえないことも事実にてござ候。

 このことはこれの前に1977のペトルーシュカですでに萌芽があったがそれはいずれの機会に。
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ジェームス・レヴァイン ストラヴィンスキー/春の祭典


1992年録音で輸入版がそして来日記念として同演目を含む
1993年にリリースされた音盤、しかも同曲の国内演目はさらにラヴェルのボレロを演奏した記録され、このオケの底力は
フィラデルフィアやシカゴの豪腕を頂点にされるアメリカオケだが、裏方にてもデフォルトこれぐらいはやってのけることを知らしめるものにて候。
1993年6月3日:サントリーホール
ムソルグスキー/展覧会の絵
ストラヴィンスキー/春の祭典
ラヴェル/ボレロ
あなおそろしや、実演見聞した人はコメントキボンヌ

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by dr-enkaizan | 2009-02-08 02:15 | 解説のない音盤紹介

ストラヴィンスキーマラソン 続 支援祭り 「エボニー協奏曲」

承前
夏ごろから始まった 庭は夏の日ざかりさんの
 ストラヴィンスキーマラソンがよいよ12/22を達成し峠を越えよいよ後半へ向かおうとしてる次第であり、地道に無理のないレヴューと的確な音楽感慨は、この多くの音楽ライターに玄人向けと言わしめている当全集の真の姿を伝えつつある次第にて候。

 大袈裟だが、多くの人々がこの全集を聞かんとするときの 道しるべとなるのは確かであり、施是非とも、ストラヴィンスキーの一過言ある方々の、支援も要請していみたい今日この頃にてでもあり候。

 さて円海山的今回はその12枚目の中から
 当曲エボニーは、1945年に、グットマンとならぶ、アメリカビッグバンド界の巨匠にしてクラリネットプレーヤーのウディ・ハーマンから、彼の楽団へのレパートリーの依頼として成立した契機がありなん。

 この頃は戦前のガーシュイン周辺のホワイトマンと彼の楽団による、シンフォニックジャズから一歩進んで、ジャスに中にさらに、近代音楽的語法的を平滑に取り込む、試みとして「プログレッシヴ・ジャズ」の運動が生じており、それらの流れを受けて、その開拓者の、ウディ・ハーマン1945年夏に依頼された次第でありなん。

 初演数年後には。依頼者による録音もなされ、さらに再録音はステレオにてエベレストが録音して、数年前に前者はアンダンテの旧自作自演および初期録音集に収録され、後者はエベレスト復刻によりCD化もされ、さらに10年前ぐらいにはフィリップスーにて国内盤でグーゼンスのストラヴィンスキー曲録音とのカップリングで発売もされている次第。

 さて 今回の録音(1963/4/25)で、ストラヴィンスキーが自作自演参加させしクラリネット奏者は、ベニー・グットマンであり、いわずと知れた、ジャスの人種を超えた次元でのアメリカでの大衆普及に多大な功績をのこし、その択一な表現能力で「スウイング王」としてここで語るまでのない人物にて候。

 そしてこの人物とクラッシック音楽の関連も深く、スイング王としてジャズでの成功の後、イギリスにてクラシックの名手に習い、その後多くのクラシックのクラリネットの曲目を演奏し、その録音も残している次第であり。

 その範囲は古典派モーツアルトやロマン派のウェーバーに近代でのニールセン ドビュッシーそして、同時代のコープランド ヒンデミッドに協奏曲そして、バルトークにコントラスツを書かせいる次第でもある。
 このクラ音楽への接近も、ハーマンのプログレッシヴより先行なれども、なにかしら、一つのジャンルの発展において潮流として符合し対をなすかのような感慨もあり、それはジャズの方々にお任せするとしてこの辺で、エボニー協奏曲に話を戻すと。

 曲は多少スイングするリズムと野蛮な器楽のオスティナートリズム応酬にクラリネットが踊る第一楽章に始まるが、この奔放なセッションにような音楽がストラヴィンスキーが起こした譜面によることを考えると、いかに作曲家がジャスの即興性に着目していたかを思わせ、戦前にエルネスト・アンセルメからのアメリカ土産としてもらった。ラグタイムの譜面を斜め読みしたあたりから始まった「ピアノ・ラグミュージック」そして、小編成のラグタイムに兵士の物語を経て、三楽章交響曲での第一楽章で作曲者自ら語る「ルンバのリズ」などの、各種ジャズ周辺の、通俗音楽の派生要素への適応への試行が、此処に結実している成果たりえるとも思える。(*)

 敢えて12-13枚目がこれらを体系的含有しているのはストラヴィンスキーとジャズ周辺の格闘を浮き彫りにするような、小展示のような気の効きようとも愚考セル次第にて候。

そして、モーダルアプローチに和声にブルーノートと前述の即興への感心は、第二楽章の短いブルースにさらに極められ。

さらに変奏曲においての律を定めて、ジャズのおける発展できそうな諸相をスケッチしたかのような、フィナーレの第三楽章は、そのトロンボーンの下品なフィルダウンや、フィルアップするトランペットなどのビックバンドジャズの常套句や、スリーステップの伴奏、そしてストラヴィンスキーの自身語法のオルターネィトバスやリズムがそこに自然発生的に存在していることなど、自らの語法の親和性を示していて、このジャンルがいずれ現代音楽に肉迫する可能性を強く示唆もしている箇所すら所見さるる。
 事実その四年後にハーマンはバーンスタインにプレリュードとフーガとリフを書かせるが、あまりに現代語法との親和もあり、彼によってこれは初演されなかった。

 国内盤ではこの曲も一緒にカップシングされているがこれは話がそれるのでこの辺で。

*懸命な方々は此処に「ロシア風スケルツオ¥も含まれるのでは思う次第であるが、むしろジャズバンドの音響体としての興味が作曲家にはあり、語法的な試行は一切見受けられないのではという円海山的な見地ゆえご容赦されたし
 なお12枚目にあるコンチェルティーノあたりは、ストラヴィンスキーのユニット的裁断的論理による即興的様相可逆をフルに行われており、ジャズの枠にてそれらの論理を抑制する口実に作品成立ハードルを下げているところも伺え、その辺では包み隠すことなく、ピエールブーレーズがグラムフォンとエラートに行った生誕100記念の室内楽録音集にて、斯様に両曲とも録音されている。
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by dr-enkaizan | 2007-10-30 01:28 | 他近代音楽@管弦楽

「樹海の木々」-三大バレー以外のストラヴィンスキー1982(3)

さて暫しの休止から(笑)再開
レコ芸1982からの三大バレー以外でのストラヴィンスキーのチョイスの件、今度は現代音楽の評論重鎮の船山隆氏の選定
交響的幻想曲「花火」
ブルレスク「狐」
バレエ「プルティネルラ」
バレエ「結婚」
バレエ「ミューズの神を率いるアポロ」
詩篇交響曲
バレエ「カルタ遊び」
エボニー協奏曲
バレエ「アゴン」
レクイエム・カンティクルス
ピアノソナタ嬰へ短調
日本の三つの叙情歌
交響詩「鶯の歌」
交響曲ハ調
カンテククルムサルクム
となる
氏曰くその作風の多様については・・・・

ストラヴィンスキーの六十年以上にわたる創作活動は、二十世紀音楽史の複雑な歩みを反映し、バロック時代や古典派やロマン派の時代には考えられないような激しい変化に満ちたものであり、(以下略)
とその実は作風の様式区分は困難であると帰結している。
そして三大バレーを
創作の樹海のなかで少しだけ突出した大木

とたとえ、しかしそれ以外の百曲以上も
ストラヴィンスキーの音楽の特質は見事に刻印され、いずれも見落とすことのない重要性をもっている。
と三大バレー以外の楽曲を定義つけている。

 確かにこれらの特徴はここでの選定では漏れた、最近「庭は夏の日ざかり」さんでレヴュー中の「バレーの情景」などの例をとっても、その新古典主義とアメリカの芸能(*)との接触などの、それらのストラヴィンスキーの置いた場所の時代の影響を感じさせるものであり、じつに区分しずらい、しかしその音楽は紛れもなく含まれる語法はストラヴィンスキーならではものであり。

ここにおいての船山氏の区分の困難という形容と非常に符合もする次第にて候。

*ブロードウェィの歌手にして劇場支配人メアリー・ローズの依頼によるレヴュー演目の劇中バレー

そして、今回の選定の視点を船山氏はこうも語る。
作品の芸術的価値よりも作曲家の創作過程を知るという視点から(以下略)

これはフランスバロック接近への興味による弦楽テクチュアの追求
のアポロや、ジャズバンドの独奏プレイヤーの即興性を再現してみたい興味本位の駆られた、エボニー協奏曲
そしてテクストによる禁欲的オスティナートや、その管弦楽の切り詰めた表現を見越した詩篇交響曲、これと同様ながら、テクストによるさらなる異質のフェルメノンを示す日本の三つ叙情歌(*)など円海山にもそれが何らかの創作的過程の変遷を考察さるるものでありなん。

さらに締めくくりに船山氏は
三大バレー作品しか知らない読者諸氏がいるとすれば、例えば最晩年の「レクイエム」のこの上ない清楚で美しい鐘の音楽に耳を傾けることをお勧めしたい。
と文面を締めくくっている次第にて候。

さて次回もつづく。

追伸ストラヴィンスキーの演奏にん「夏の日ざかりさん」の言っている
承前>、「作曲家ストラヴィンスキー」の様式を的確に捉えて、その変遷を大袈裟なくらいわかりやすく伝えようとしているみたいです。

の件は、船山氏のそれと何らかのシンクロを感じるので是非ご一読を。
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by dr-enkaizan | 2007-09-10 00:55 | クラシック

同業者の見解「テクストの呪縛」-三大バレー以外のストラヴィンスキー1982(2)

さて当エントリーに早速反応があり非常に有り難い次第にて候。
さて前述の1982年のレコ芸の特集の三大バレー以外のストラヴィンスキーの名曲今回は諸井誠氏の出番、因みに氏は同号でブルックナーの特集では、ブルックナーの交響曲第八番の紙面の続く限りの壮絶な分析も行っており、こちらでは幾分控えめな記事になったのが残念だが、この号の前後でストラヴィンスキーのペトルーシュカの版の問題を、その版ごとの編曲意図の本質から説明、非常に適切に行っており、譜面の記載方法から違う点など、耳に依存しない歴然たる違いを論じており、その論説の高さは昨今の聞こえでの指摘でわかった気になる、幼稚な説明で紙面を割くものなど及ばない次第にて候。
 そしてそれらを使い氏は、明白にストラヴィンスキーの使用している版は1947であり、表記ミスであることを指摘してもいる。

 またCBSソニーが企画した廉価二枚組みオブニマスLPセットでの「それがストラヴィンスキーだ!」での自作自演の幾つかの三大バレー以外のチョイスも氏によるもので後日それも言及したいが今回は1982レコでのそんな氏が選んだものを上げると・・・・・・。
兵士の物語全曲「ナレーション入り)
バレー「プルチネルラ」(声楽入り全曲)
バレー「結婚」
オラトリオ「エディプス王」
詩篇交響曲
三楽章の交響曲
オペラ「道楽者なりゆき」
バレー「アゴン」
エレニアの哀歌による「トレニ」
テレビのためのバレー「洪水」
ピアノとオーケストラのためカプリッチョ
メロドラマ「ベルセフォーヌ」
古いイギリスの歌詞によるカンターター
であり、氏曰く、
多くの純粋器楽の 曲がごっそり抜けおち、さらに詩篇を例外に1930年代の作品が抜けているのは、
自身のストラヴィンスキー感が強烈に表われた


と明言し、親切にその時点作品コメント付きで言及さえもしている次第であり。
それは
ブランデンブルグ協奏曲を捩った
ダンバートン・オークス(1938)



ネオバロック風のヴァイオリン協奏曲(1931)(*)


などであり、そのコメントからじつに石田氏の言及と似通っているような「ポーズ」という言及の変わりに、出てくる用語は
「テクスト」
であり、氏の区分する「様式論」では三楽章の交響曲以外は、粗筋のテクストをもったり、テクスト朗唱が根幹にもなり、時に歌詞が歌われるように、何らかテクストと関わりをもつ点に着目しており、氏が推理するには、ストラヴィンスキーが声楽家の父親の家に生まれ育ったことなどに起因しているのではと締めくくっている。

さて次回は現代音楽の評論重鎮船山隆氏の引用をそしてこれらの中で、誰も入れていないものを円海山的選定にて締めくくる予定にて候。
暫し待たれよ。
(*)当曲やエボニー協奏曲は件の廉価には選定されている。
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by dr-enkaizan | 2007-08-28 00:29 | クラシック

受容者たる者の証-三大バレー以外のストラヴィンスキー1982(1)

 今年の夏は「CBSのストラヴィンスキー自作自演」集成22枚組みが、嘗ての歴代の購入者を失望させるほど「壮絶な廉価」で発売されたことが、一つの情報の産業が定着した時代を象徴もしている。もはや雑誌や嘗てのベンダー側のオブニマス企画という限られた機会でしか出会えない体験が、そのまま全容は個人の自由で出来るように、全て購入出来る次第にて候。
 これは当全集をある廉価企画での抜粋で知り、LP期に限られた分発売を買いあさり、CD期に清水の舞台例えのような価格にもめげずに、決起し購入したものにとっては、今の世代は恵まれていると思うことしきり。
 
 それらを受けてか一部の向きでは斜め聴きする方々や、一枚ずつ聴破マラソンを敢行する方々などもいて、各々様々姿勢にてその情報に挑戦する気概大いに感心にいたる次第でもありなん。

円海山的にそれらの方々に歩調を合わせてすこしストラヴィンスキーについて、ネタを供出してみようと思う次第にて候。

 多くの者達がストラヴィンスキーの音楽全般に挑もうとする時、宿命として立ちはだかるのは三大バレーの独創性と親しみやすさとの、ギャップであり、多くはその受容の難解を、作曲者の作風の変遷が発想の枯渇と捕らえ責任転嫁するかのように、作品の芸術価値を低く見なしもし、聞き手の蒙昧であることを否定したがる顚末に陥る。

 ゆえに歴代のストラヴィンスキーの音盤やコンサートレパートリーもそれらを反映しており、常に啓蒙者が三大バレー以外のストラヴィンスキーを建前上に聞くことを推奨しているのに関わらず、聴衆はその言説があまりに学術的区分で見なされすぎていることに、作品そのもの才気を味わう以前嫌気がさし、一向に三大バレー以外の作品に光が長らく当らなかった時期があったのも確かであり、子の全集も三大バレーでの一部の作品の演奏が、前提条件ゆえの結果であった可能性も忘れられただ単に、下手と誤解され、それらにより、へたな代表曲の演奏枯渇した作品の全集として事実無根の誤解がなされ、長らく日本のマーケティングの外に追いやられていたの時期も存在している。

 こうした気風は1980年代までつづき、おりしもマーラーブルックナーという、コンサート趣向あるいは音響趣向ににて多くの世紀末記号にも事欠かない音楽の再評価に隠れさえもした。そうしたなかかすかな光明に生誕100年に集成された31枚組みLP全集および、アニバーサリーにあわせた雑誌の面での特集であった。

 円海山的にはレコード芸術の1982年の11月号が端的にそれを象徴していると感じる次第であり、当時のマーラーブルックナーのブームを反映して、その号は第一特集にブルックナーそして第二ストラヴィンスキーと後者がやや少ないが同規模扱いの特集になっており、そして第一世代発売が始まったCDが第三特集に組まれている、破格の編集構成である。

 そしてここおいて、三人の評論家(石田一志・船山隆・諸井誠)諸氏の三大バレー以外のストラヴィンスキー名曲当りが始めて点前を超えての評論者として接するストラヴィンスキー作品群への本音が聞け、その受容の鍵にもなった。

 今回は石田氏のを紹介引用すると・・・・・。
弦楽四重奏曲のための「三つの小品」・「兵士の物語」・「プルティネルラ」・「管楽器の為の8重奏曲」・「オラトリオ エディプス王」・「三楽章の交響曲」・「エボニーコンチェルト」「ミサ曲」「オペラ道楽者のなりゆき」・「ピアノと管弦楽のためにムーヴメント」である。

ここでの石田氏のコメントから解ることは、氏は聴衆や読者の芸術文化における機能に注目した「受容美学」のヤヌスの言葉の
「文学や芸術は、、作品を受け容れ、享受し、判断を下す人々の経験を媒介として、初めて具体的歴史過程になるという考え方がある」
 という旨の引用に始まり、作曲者という創作側にもその「受容姿勢」が力量に関わることを言及しており、過去の作曲者書簡などもたとえ、歴史にあわせ作風を変貌させたストラヴィンスキーもそれらの、優れた受容属性故であると、指摘肯定して、その民謡からバロック、古典派にラグタイムなどのジャズそして12音音列主義までの
「良き受容者」
としての証にてのストラヴィンスキー像を聞く観点でチョイスしている次第にて候。

そして30年代の作品をそうした受容の社交性の「ポーズが」過ぎていると控えめに一喝して。、自らの選定から漏れていることを明示して分を終えている次第である。

実は偶然の一致か諸井氏のチョイスも1930年代が抜けており、次回は氏のチョイスを引用してネタを続けようと思う次第にて候(つづく)
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by dr-enkaizan | 2007-08-26 23:59 | 現代音楽

春祭クロニクル(2)続ゲルギエフ「先進的感性」

前回は演奏上の不備を指摘したゲルギエフの演奏だが・・しかしながら今日類例が少ない発見のこの演奏に累々と潜むのも確かにて候。
ストラヴィンスキー:バレエ《春の祭典》/スクリャービン:交響曲第4番 作品54《法悦の詩》
ゲルギエフ(ワレリー) ストラヴィンスキー キーロフ歌劇場管弦楽団 スクリャービン / ユニバーサルクラシック
スコア選択:




 多くの評論はロシアを引き合いにするが・・・ここでの注目すべき点は、そのスコアを舞台装置として見立てたかのような、立体もしくは、空間を偽象的に想起させるような解釈が非常に先進的な感性により成り立っている次第である。

先に例えるなら、これはソビエトの軍事兵器に良くあったことだが・・・・装甲を斜めにして兆弾性能をたかめた戦車T-34や近年のMIG-25の合理的(ベレンコ事件で材質や製造に無理を生じていたことが暴露された)造形しかり、設計概念がいきなり近未来なるもので現るようなことと通じる次第。

ここではストラヴィンスキーによって書かれた。幾つかのオスティナートと旋律を交差重層させたスコアのデュナミークやアクセントを音楽律動としてではなく、モンタージュ手法的な舞台背景変遷のような感覚で扱っているかのようなところが散見さるる。

顕著なところは春のロンドの主部のソステヌート・ぺザンテの件での幾つかの管弦楽のテクチュアが重層していく(*)あたり

最初は第一泊以後が裏にアクセントがつく旋律を趣向するかすかな兆しを与えられた上向きおの、並行五度の低音オスティナートが、バスクラリネットと弦のピッチカートで演奏され、それのの上に、234泊目での対比する純正なリズムをきざむ、弦楽もしくはホルンの未解決の音程を並行された和音が、これまた此方は明確な完全な旋律へ発展(*)する萌芽の刻みで始まり、(SEC-A)対比する弦楽の9の属和音の刺繍を伴った一定の旋律の反復する木管の土俗的な部分(SEC-B)と数回交差するごとに旋律の萌芽を育てて行き、管弦楽の暴力的な表現にまでもって行く。
(*)すでにAの要素は「春の兆」しで低音の裏打ち以外は、後述の木管のオプリガードのトリル共に出現している(練習番号28+5小節目1967年版目安)

大雑把に区分けすると
A×3 B(準備)A×2 B(2小節の全貌)

次節ホルンと弦楽による旋律的としての提示行われる
A×2(ホルン和音) A’の旋律的細胞展開(三小節) 左のホルンとフルートに拠るA'反復

a0007939_0485274.jpg

さらに木管のトリルのオプリガードで管弦楽のテクスチュアの変奏がなされ
A’そして六拍子に伸ばされ小節単位でAの拡大された枝葉末節が提示され、ここにおいでバスのオスティナートが旋律を趣向していることを観察できる。
a0007939_04937100.jpg

次の節でBが久し振りに提示そのありAの要素で管弦楽を増大した、暴力的な咆哮へ以下略


a0007939_0495175.jpg
とぃう件になるが。
ゲルギエフはここにつけられたデュナミークをやや誇張して敢行しており、それにより、まるで背景の舞台背景の垂れ幕が幾重かに重層し、交代するかのような擬似的空間感覚を醸し出す次第であり、これはかつて類例のない土俗的共感というより・・・劇場要素のギミックとして捕らえた当曲への先進的解釈のようでもあって、むしろ土俗よりも非常に未来的な感性に、当演奏家の読みの深こそ、円海山的には感心させられた次第にて候。

斯様な箇所もあり、前回の間違いが非常に惜しくもあり、世間のロシアの土俗として「ブラボウ」最上級の一言で扱われるは何か違う思いひとしな思いに駆られるのでが、皆様如何なりや。

なお件のオスティナートはプロコフィエフの「つかの間の幻影」などでも借用したのか、偶然に類例になったのか?類似するものが観察される、さらにゲーム音楽では最近頻繁にとりあげている恐縮な「三共」のパワフルシリーズの旧作の「ワンダーパワフル」でのスライドリーチの音楽に似たエリクチュールを見つけることが出来、ストラヴィンスキーの春の祭典の書法が後の、生活とかの発生起源とは別の次元で音楽的脈絡以外で切り貼りされる、音楽の用途と要素を予見していたのではとも想像させる次第である。

次回はサロネンの春祭での「拘わった美しいギミック」でも・・・・
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by dr-enkaizan | 2005-06-13 00:50 | クラシック