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六国峠@ドクター円海山の音楽診療室-無用な営みの、えも言われぬ、この上なき喜び

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タグ:オーマンディー ( 14 ) タグの人気記事

オーマンディーのマーラー 交響曲10番再々発売

Symphony 10: Great Performances
Mahler Phl Ormandy / Sony
スコア選択: ★★★★★
去年の特集で言及した音盤はよいよ六月初旬に再々発売となる。
密林に吉報あり。
追記2006年10月に国内盤も
マーラー:交響曲第10番(クック版)(紙ジャケット仕様)

として発売される(限定盤)
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当録音は、ゴルシュミッドの演奏と企画のBBCの放送断片であるクックの第1稿をテープによって聴いた、アルマ及び意思を次いだ娘アンナによって齎された、ぜ途絶部分を補完できる骨格資料に基いて。初めて全曲が露になったクック版の第二稿を録音しており、現行の版と細部が異なることと、その研究的な素材を、オーマンディーがフィラデルフィアのトップオケのヴィルトオーゾで明確に聞かせる次第であり、資料的要素と表現的感動が両立している点では後にも先にも、この水準に達すのは希少な事例となっているほどあたりに、意義を見出すことができる次第。

 因みに現行の版は第三稿であり、それが完成した当初の第一番目の版がモリスにより録音されて、後述のラトルやザンデルリンクは、それを元に独自の変更をしている。

そしてクックの死去の直前に第三原稿のさらなる補完がなされ、第二番目の版が作られ、共同補筆者にコリンマシューズ他らのイギリス補筆マニア(笑)の名前などが明らかになる。

 この音盤と今盟友間のブログのトピックにコメントにて盛んに取り交わされている 、マーラーの10番のクック補筆版を中心にした「10番」の諸相へ少し感慨を・・・・・・

 さて近年はラトルの再録音やザンデルリンクの名盤が廉価で発売されてしまっていらい、それのみで、あるいはシャイーそしてバルシャイの奇妙な補筆版の比較的入手し易い録音にて語られがちな、マーラー10番クック補筆完成版の様相にあるが如何なものかとも思う日々。

かつての、本来10番の道は、セルのグルシェネックの1&3楽章のステレオ録音からこのオーマンディーそしてモリスというは、必ず必携だった時代が存在していたとも愚考致す次第。

 この頃の録音のほうが?マークが明確であり、決して自然なの物かは補償しかねるが・・・・・あえて、その生々しさに、クック版に再現ドラマではない晩年のマーラー軌跡へのドキュメンタリーの視点を与え真の10番の姿を浮き彫りにしているような存在の違いをも感ずる次第にて候。

 因みにこの道の最に来るのはラトルとザンデルリンクであり、多少研究的立場より演奏的な観点にこの曲の価値が転移されてゆく、そして
 シャイーやレヴァインそれ以後色々といった成立者の立場を離れた音源や演奏活動が出現し出すのは周知の通り。

 ちなみにラトルはクックの補筆契機を「イギリスBBC」で与えたゴルシュミッドと接触があり、そのラトルと意見交換していて独自にも細部を変更しているザンデルリンクは、その変更の根拠には、このオーマンディーが録音している、クックの初期補筆版を参考にしている節が有る次第なことが当音盤と後述の金子氏書物にて解る。
マーラー:交響曲第10番より
セル(ジョージ) クリーヴランド管弦楽団 マーラー ウォルトン ストラヴィンスキー / ソニーミュージックエンタテインメント
ISBN : B00005HJU3

グルシェネックの1&3楽章を軽視する人々はこれを聞いてから再度ごご検討ください。

追記2006/10に国内盤でオリジナルのカップリングで発売される(限定)
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マーラー:交響曲第6番&第10番(紙ジャケット仕様)


そして主なクック版の経緯は下記書物を踏まえた上で語られるのもセオリーでもあり
マーラーの交響曲―こだわり派のための名曲徹底分析
金子 建志 / 音楽之友社
スコア選択: ★★★★★



マーラーの交響曲〈2〉
金子 建志 / 音楽之友社
スコア選択: ★★★★

何故クック版の補筆の実態が的確に説明されており、その資料の状況も経緯をおって丁寧に解説されている次第でもありなん。

とくにこだわりの方のP216-P252の10番に関する金子氏の完璧な資料の提示とその差異の研究振りには、クック版それ以前の版の10番の音盤を聴くに当り・・・圧巻なる存在なのはいうまでもない。

 ちなみに此処の書物の資料にもこのオーマンディー盤のライナーが多く引用されており、アルマが最初BBCの仕事に激怒していたこと、放送関係者の持ち寄ったテープで和解して協力の立場になったことなどがレブライされている。

もし此処で紹介した経緯以上のクックの作業の実態と版の詳細を知りたき人々は是非ご一読ください。

 及びさらに推奨できるのは諸井誠氏の80年代の音楽現代の当全曲への記事なども推奨しうるが諸井氏のは入手が困難の可能性あり。

さて皆様深い10番道道へお進み下さりますよう祈っております。
ラトル指揮バーミンガム市交響楽団のマーラーの第10番(クック完成版)
鎌倉スイス日記様
作曲家の疑問がクック版の補筆の実態見事に抉り出しております。

マーラーの交響曲第10番ですよ。三途の川の向こう側
yurikamome様

こちらも大変10番が好きな御仁の随筆

シャイー、ベルリン放送交響楽団の率直な感想が興味深い(初TB宜しくお願いします)よしさんのトピック
マーラー 交響曲10番(8/3追記)
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by dr-enkaizan | 2006-06-03 13:09 | クラシック

没後20周年オーマンディー記念-外伝「考えるな、感じるんだ!!」(8)R・シュトラウス(CBSステレオ)

 オーマンディのCBSのLP時代において評判が高いかかわらず冷遇されたリリースがなされたのは周知のとおり、特に酷いのはR・シュトラウスの主要作品の一連の録音ではとも考える今日この頃。

Strauss: Also sprach Zarathustra; Don Quixote
Lorne Munroe Richard Strauss Eugene Ormandy Philadelphia Orchestra Carlton Cooley / Sony
ISBN : B0000027OL

Strauss: Don Juan; Till Eulenspiegels lustige Streiche
Richard Strauss Eugene Ormandy George Szell Cleveland Orchestra Philadelphia Orchestra / Sony

英雄の生涯のみ


Strauss: Tod und Verklärung; Salome
Richard Strauss Eugene Ormandy George Szell Cleveland Orchestra Philadelphia Orchestra / Sony
ISBN : B000002915
上記はメインの家庭他はセル/クリヴランドで「サロメの七つのヴェールの踊」のみががオーマンディー



 CBS時代のオーマンディーの音盤は初出の評価はかなり高いが、その後再発売にての粗悪なマスターの状況で入門用の要素の高い廉価に廻され、デジタル時代に入ると新録音に押されて忘れ去られそうになるが・・・・CD化にはいり旧巨匠のCD復刻のあおりを受けでその繋ぎとして、出されるが?多くの批評世評はこぞって無視。CBSは今だそれを貫く様子であり、アニバーサリなる本年も現時点で?の状況。


現在国外でも入門用に発売されているのは、こうした事情が国内のみならずと言うことの表れかととおもえばさにあらず?。

 かつてのLP時代より残響などの感覚が、メディアの媒体の余裕ゆえに自然にリマスタリング見違えるような音で我々を、よりコンサートプレゼンスに近いフィラデルフィアサウンドへ誘う次第でありなん。

 ことさら面白いのは「ツラトゥーストラはかく語りき」であり
普通は夜明け」だけで終わるような、他は内省的で哲学的エリアへ入り込む演奏が多いなか。

非常に前編判りやすい音楽的な表情でシュトラウスのスコアを聞かせる。中盤の「科学」についてから単一フレーズのリズム変奏による箇所の弦楽確かさや木管の効果音的反復の美しさは格別であり、舞踏会のソロの歌いこみは、他にない豊穣な音色と表情を示すし、当音盤のリマスターの最大の成功なのやもの感慨高しもの。

最後の夜の歌の弦楽の表情もシュトラウスの知性的な憂鬱と感傷の粋な癒合と対立がことのほか美しいプロセスで歌心を忘れずに示される。最後の天と人間の対比の偏在を象徴するかのような、遠隔な関係の主和音二つが交互に示されるところも、普通は器楽の差に負けいずれかの解決に聞こえてしまうのが、ちゃんと分かれて二律背反状態に聞こえるというぐらいのもの。でありむしろこのドライさこそ「ニヒリスム」の音楽化に相応しい妄想も抱かせんとする。

そしてドンキホーテ、解説するのが陳腐なほど、オケの覇気と確かな技術の質感が、変奏曲たることを忘れさせ、物語の描写であることへ没頭させる次第。

 冒頭 木管のドンキホーテ三和音ファンファーレ風の主題に、木管郡で歌われるバスクラリネット系のジャルマイというより、アルペンかパセット音質(笑)な、侍従サンチョパンサのゲルマンのフォークロア的な主題などの提示と、羊や風車やドルシネア姫の変貌効果的管弦楽やウインドマシンの巧みなバランスは、独奏の扱いのチェロの語り部風のパートの巧みさと相まった感を持つ次第。

後のRCAやEMIへの再録音はさらに風格を増して無論一歩も二歩も上におる次第ながらも・・・・CBS時代のR・シュトラウスは、捨てがたいオーマンディーの遺産と所見いたす次第。

 これはまったくの問題提起なし省みられなくなったような、正統な表現やも?むしろ現在これほどの表現できる余裕の技術を持っているオケはどれぐらいいるのか?実質昨今の「国内オケ」や「某放送局」のオケのように「巨匠呼び込み」「祭」で(2005時点での)、集客や技術向上とノタまいているのでは論外やもと妄言もいたす所存にて候。だた「我々に感じる音楽を聞かせてくれ」と電脳の片隅で呟く。音楽家は音楽で勝負してくだちい(ガンツ風)
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by dr-enkaizan | 2005-05-06 13:55 | 解説のない音盤紹介

没後20周年オーマンディー記念-外伝「考えるな、感じるんだ!!」(7)シベリウス:交響曲第一番ホ短調

 オーマンディーのレパートリーとしてシベリウスの売りは作曲者との親交厚いことが第一に挙げられていたのは昔の話。

 最近の北欧演奏家の世評がメインの風潮ではオーマンディはスルーされている感が強く誠に憂いるべき状況でありなん。
しかしながらも当時良かれと思って行った表現がシベリウスの書法的と特異性を矯正する形あらわれたのは確かであり、今日の流通体制普及における北欧演奏家による演奏の北欧レーベルによる成果が、自然な息遣いな音楽作りにて好事の方々の話題と評価の中心となり、さらに地元ならでは譜面のクリティカルな差別化もあり、その演奏こそ自然であると有り難がる風潮すら作りつつある。

 確かにオーマンディの活躍し始めた当時のシベリウスが晩年高性能ラジオや再生聞を自宅に持ち込み、放送や音盤で自らの作品が演奏されるの楽しみに余生を送っており、その契機でクーゼヴィツキーなどの強い要望で八番を一端書く気になっていた心情も推察され、まだ著名ながら、多くは演奏が無い時代に比較的早く作品を紹介していた遠方の演奏家オーマンディーへの好意的心情もあり、細かい問題以前の話とも邪推もできる。しかしながらオーマンディー作るフィラデルフィアのシベリウスが北欧の演奏および一部の伝統ある英国勢より、低い与える評価を排他行為的に「北欧音楽の愛好のもの」から与えられて、価値を蔑まされることは誠に心外なおもい一入今日この頃でもありなん。

 一つ喚起を促したいのがオーマンディーの演奏に現れる確かに作品には異質なほど器楽的な色彩認めらるるも、さて当該オケの「萎縮したフレージングや管楽器」という現状のオケのテクニック不備を「北欧」の味として誤認しているのは甚だカルトめいた説得力とも思える次第。

 北欧の音楽の受容は?もしかすると今がマーラー受容歴史でいるところのワルターやクレンペラーのユダヤ系というカテゴリーでしか伝導が容認されないフェイズの時代なのやも知れない。

 そして、北欧勢での丁度近代現代管弦楽のダイナミズム立ち返ったサロネンのシベリウスの演奏がネクスト・フェイズであり、シベリウス演奏におけるブーレーズもしくはバーンスタインのような書法的普遍性を刺激的に示しつつあるが、その点での歪曲されない解釈としては・・・?
 あえてオーマンディ側にも問題があるところもあり、スコア演奏法の改変などがあり、たとえば次項で紹介する予定の「四つの伝説曲」での「トゥーネラの白鳥」での練習番号Hでの、流れる川のざわめきが不吉を示唆する弦楽のコンレーニョよるトレモロの背景通常演奏方のトレモロに変更されており、これはカラヤンも同様なこと踏襲しており、この辺作曲者の器楽感覚に忠実ではないことを大いに認めうる問題も当然存在するが、昨今の一部の北欧の愛好家オーマンディ無視はその辺の水準ではに、「豊穣」への嫉妬めいた「偏執」を感じる次第。

 たしかにオーマンディーの演奏の問題を挙げれば語りつくせないが、それゆえシベリウスの魅力も理解増倍する顛末にもなるのは確か(笑)

 それはさておき、ともかくオーマンディーのシベリウスはそんな背景を忘れ、明確で豊穣な色彩でシベリウスの音楽を無心の境地で誘う魅力として再度拝聴することを切に願いたい次第我所望す。

 それゆえにシベリウスとしては、隣国の影響が多く異質な成分が多い当交響曲第一番ホ短調において、北欧勢の演奏が達成できないような、他の交響曲と違う様々ロシアに後期ロマン派等の影響要素の交差倒錯する音楽世界を、オーマンディーはかなり際どく描く、その状態こそが逆説的にシベリウスの独創性の萌芽を剥き出しにする。

 ロシア圧制の国民の隆起風潮もの背景で、シベリウスが模索していた交響的作品ながら、その結果は、むしろドイツ後期ロマン主義と圧制側のロシアのチャイコフスキーとムソルグスキー・ボロディンなどのロシア五人組の影響を多大に感じる豊穣な盛り上がりが、「書法の敗北」を感じさせ、そのあたり北欧音楽の叙情とは異なる戸惑いを生じさせ、さらに終曲の終わりがことのほか、「第二交響曲」の予告編のような気持ちにさせられる。

 この異質要素がオーマンディー/フィラデルフィアの十八番の音楽であることを考えればおのずと結果は見えてくる次第であり。ことさら忘れられつつあるがこのCBSの第一回録音は過激でもある。

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Sibelius: Symphonies Nos. 1

 第一楽章の最初のティンパニニーのトレモロの背景上でのクラリネットのモノローグから過不足無く提示される音楽がやがて、弦楽の高音域トレモロの背景の合図で呼びかけるような、民族古謡的節のある主題が弦楽の提示に導かれう此処の、歌いこみの確かさは当団ならではあり、その後の旋法的な第二主題の推移での、技巧的至難な三拍子の過激なアクセントも極めて完璧であり、むしろ通常は第二楽章の盛り上がりと同じように避けて表現されるところある、チャイコフスキー的なアカデミックさで絵画的な表現に欠くところ無し。そして通常なら展開部の降下する音階の橋渡しが、技巧的に無機質にあるところを、その技巧が余裕の表情を輩出し、音階より音程に興味がある、ロシア五人組のムソルグスキーへの書法的接近を感じ、その後フランスでのドビュッシーとの出会いが契機にある第四交響曲の六全音の先駆、容認の土壌を此処に感ずる次第にもあり、それらが明確に察知できる心地よさと音楽として豊穣さに事欠くことない充実感は素晴らしく、その音楽の低音にピッチカートで終わる呆気なさにも充実をみることの出来る次第。

 第二楽章も朗々と歌われ。次第にチャイコフスキー的な盛り上がりから、半音階的派生が増えて細かくなし、後年のシベリウスが出現するような様を技術な確かな弦楽が克明に追う。

つ続く第三も第四楽章も遠慮のない表現でその相違と異質そして語法の同化する点を、隠すことなく演奏することを敢行する。後半はロシア五人組書法的影響と後期ロマン派のワーグネリズム上でのブルックナー等の影響が濃い音楽であることを再確認する次第である。

 なにか個人的には、チャイコフスキーめいてもいて。ムソルグスキーの禿山一夜の原典版のテクスチュアと同質な民族的な要素がにおうテクチュアあるアレグロを持つ第四楽章はシベリウスでもことさら異質な音楽世界であり、適度なケレンを弦楽の歌いこみのあるところに与えており、もはやマーラーのような別の領域に入り込むが、その美しさは見逃せない当演奏の売りと所見いたす次第にて候。

なお当盤のリマスタ状況も良く明らかにLP時代より格段に落ち着いて聞ける音質にも一端はあるとも思う次第是非ご拝聴。
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by dr-enkaizan | 2005-04-04 02:48 | 解説のない音盤紹介

没後20周年オーマンディー記念-外伝「考えるな、感じるんだ!!」(6)ウォルトン『ベルシャザールの饗宴』

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Walton
Belshazzar's Feast
Cassel(Bar) Rutgers Univ.Chor.
Concerto for Vn. VI  Francescatti
サロネンのヒンデミットと言い、ヨーロッパのソニーは、リーリスの毛色が少しアメリカや国内と異なる次第であり、昨今「密林」対策での「塔」や「犬」の廉価のワゴンをあさると、様々なものがお買い得価格で出てくるの始末に終えない。
 そんな中オーマンディとしては結構珍しいウォルトンの大作オラトリオ『ベルシャザールの饗宴』もこの廉価にてコストラネッツやセルの名演奏に隠れひっそりとリリースし、此処に報告する次第。
 サックスを含むオーケストラ、ピアノに2つのコーラスとバリトンソロによって構成される当曲のテクストは、旧約聖書にあるバビロンの崩壊の過程である。音楽は最初トロンボーント男声合唱で始まり重い音楽でバビロンに捕囚されしヘブライ人たち、幾分顛末がそして音楽はリトミックになり、ジャズ風のアクセントで少し行進曲風もなり、ヘブライ人の眼前にて、ベルシャザール王と異教徒たちが絢爛豪華な宴を催し、ときに音楽は偽りの万の神々を讃える狂乱の場面は、具体的に鉄の神なら金属打楽器が鳴らされ、木の神なら木質と打楽器というような具体的活な表現がなされ、次第に、暴力的な身振りを持って、極彩色の絵巻のような華やかさと重厚さへ発展。

 オーマンディーの演奏の合唱とフレージングが流麗な管弦楽フレンド素晴らしく、背景に良く左右に広がったUniv.Chor.の合唱も過不足なく広がり、件の宴の始まりのトラペットのファンファーレ(ストラヴィンスキーのオイディプスの影響が強いような)からバリトンの「神を讃える」朗唱に合唱のコラールの背景に、広がりを持ってやや上品に咆哮するオケの優雅さは当団ならではさらに、ジャズう風なシャッフルする、リズムのレジョロな感覚も忘れていない。そして最後の16分音符の同音連奏応酬はさすがに技術の裏づけありか?凄まじい。
 多少やがて「空中に現れた神の手が王の死を予告し王国が崩壊し」のくだりの劇的な不協和音によるウォルトン独自の器楽と合唱のショックインパクトの合間にも、絶えず弦楽は美しく、ただしオルガンお低音より管弦楽の衝撃にバランスが置かれ、管弦楽主導なのはフィラデルフィアの自負心か?さて 囚われの身にあった民は解放され、ウォルトンならではのアクセントがつけたれ三拍子に始まる、歓喜に満ちた「アレルヤ」の大合唱へ。
面白いのはアレルヤに至る前の盛り上がりで現れる二群に分けられたトラペットの掛け合いが左右に振り分けられるのが明確に聞こえ,音楽の躍動の骨子になっているあたり金管の技量の確かな事をさいど確認できる次第。

 ともかく・・・・これは国内での世評はデンで聞かないが?聞けば瞬く間に魅了されし音盤であることは確かにて候。録音は1961年ながら音質良好
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by dr-enkaizan | 2005-03-29 04:01 | 解説のない音盤紹介

没後20周年オーマンディー記念-外伝「考えるな、感じるんだ!!」(5)ドビュッシー「舞曲」

 CBSの廉価CDのドビュッシーアルバムの余白に収録されたドビュッシー=ラヴェル編曲の奇特な管弦楽小品 録音はは1959年


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 さて偶然にもユリカモメ氏の「yurikamomeの徒然日記」にて、オーマンディーのドビュッシーの「牧神の午後」がエントリーされており、さらに件のモットー「考えるな、感じるんだ」をお褒め頂きブログ冥利に尽きる恐縮な次第。原典はブルース・りーの言葉ながら、オーマンディの芸風を理解する一言と愚考する次第さすがに「燃えよ」とはないがこの一言で「萌え」になる人が増えることを切に懇願する次第にて候。

オーマンディーの「海」「牧神」「夜想曲」とは違うドビュッシーの小品(編曲)はこのほかベルガマスク組曲から「月の光」に初期のピアノ小品の「夢」そして前奏曲集第二巻から「風変わりなラヴィーヌ将軍」などが主立って知られており、この「舞曲」の録音があることは余り知られていない。

 オーマンディーのドビュッシーは初期の楽曲の方が世評は高く、牧神の午後あたりでのメロディーの歌いこみと磨き上げによる音楽の躍進はこ作品の本質を捉えた官能性において、絶品になる反面、海あたりではその「歌いこみ」が重層的テクスチュアを愚鈍にしてしまい、さらに第一楽章のゴーダでのスコアの意図的な改変は多少問題ある次第でもある。

 この辺がこの演奏家ある種の「限界」を示すものなれど俄然ドビュッシー楽曲「海」から別の境地を見ようとするときには、欠かせない問題提起と捕らえると演奏の価値は認めうるものにて候。

 さて斯様な問題とはは小品の録音には無縁であり、たとえば「月の光」「夢」でのイージリスニング的観点での捕らえ方もよいが?ラヴィーヌ将軍あたりでの管弦楽に変容したピアノ小品を興奮と驚きをもって聞くことも一興な次第でありなん。

そんなななか、編曲がモーリス・ラヴェルによる当曲はその色彩がオーマンディーとの適正を貪欲にまでも示し、水準の高い成果が聞き取れる演奏にてござ候

 むしろ大曲の演奏内容を圧倒するぐらいの出来栄えといってしまえば大袈裟のなれど、あながちではない事態を耳にできる。

 ドビュッシーが東洋音階的フレーズで作りながらも、和声的(*)な観点でワーグネリズムから脱却する頃の書法変遷がみられる過渡期の楽曲であり、その題名は「ステリー風タランテラ」と言うひねくれたもので、それは友人サティーの「トルコ風チロルの女」からインスパイアされたものでもあり、その構成は中間の静かな舞曲を挟んだ、三拍子系と二拍子系混じる拍子あるスケルツオ的楽曲の構成は、このころ出入りしていた当曲を発表していたサロンの主催者、エルネストショーソンの「祭りの夕べ」との関連すら感じる様々な重要な意味合いを具有している楽曲。
 それを後年モーリス・ラヴェルが「ピアノのために」の第二曲で、実は作曲時期は舞曲と同時期に未発表の「忘れられた映像」の第二曲でもあった「サラバンド」を対で管弦楽に編曲し、今日に至る。

 ラヴェルの管弦楽の編曲は、ドビュッシーの楽曲を損なうことなく管弦楽のテクスチュアへ割り当てられる職人芸の領域であり、その点での当団とオーマンディーの適性がオリジナルのドビュッシーの管弦楽より勝っていて、それゆえに結果を生み出したのとも考えられる。

 一般に、一つのカテゴリーで括られがちなドビュッシーとラヴェルだが?両者の管弦楽の原理には歴然とした差が有り、その「差」についてはいずれ何かの機会に。

 いずれにせよ、主部で活躍するホルンに木管、そして弦楽が安定して躍動して運ばれる音楽の心地は、本流を離れたものながらも格別なものにて候。
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by dr-enkaizan | 2005-03-17 02:44 | 解説のない音盤紹介

没後20周年オーマンディー記念-外伝「考えるな、感じるんだ!!」(4)作品への懐疑を超えてヒンデミット

さてオーマンディの演奏でヒンデミットがあることは名曲趣向から言えば意外に思われるが、ヒンデミットに対しては非常に積極的にとりあげており
1950年にはクラリネット協奏曲を世界初演している次第。

当曲のオーマンディの音盤の有無は不明ながら、第二楽章にジャズのイディオムが生かされたところを考えるとヒンデミットもアメリカを意識させていた曲であり、何らかの成立に関与したことが伺われるが仔細は不明
オーマンディ/フィラデルフィアのヒンデミットは「オーマンディ様が見ている」で紹介のEMI録音の二曲「ウェーバーの主題による交響的変容」「弦楽と金管のための音楽」他
今回はヒンデミット:交響曲『画家マティス』の1962年のフィラデルフィアとのステレオ録音などを。

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 無調音楽に一度は身を置きながらそれに背を向け、調性音楽を復興しながら、その対位法や和声法の拡大解釈論理実践があくまでも、現代的書法の中世やルネッサンスの音楽への回帰とドイツ的音感に基くゆえの目新しさの無い響きに留まるせいなのか?音楽理論家で、教育者でもあったヒンデミットは作曲者からは尊敬されリズベクトされたりしながらも?(*)一般的に演奏家と聴衆に親しまれているとは言い難い時期を過ごして来たのは確かな次第。
(*)著書作曲法の書物は必ず目を一度は通すバイブルであり、周辺人の人気としてはフルトヴェングラーのマティス事件はもとより、イギリスのウォルトンは彼の主題で変奏曲を作り、フランスのミヨーは彼がソロをする前提のヴィオラ協奏曲で彼そっくりな書法でそれを実現したことが著名なもの。

 それは同じ対位法や和声法の拡大解釈論理実践なのだが、語法に民族音楽的発露を伴い、他社により幾何学的構築感覚を観察されて(*)話題性もあるが、その音彩の包括感覚を耳で顕著に感じられるニールセンやさらにバルトークとは違う一般に不遇な扱いでもあり、ヒンデミットミッドの音楽には聞き手や演奏家の心理に「意地悪な和声法や対位法の課題」(ワルターレッグ)を想起させ音楽の懐疑的にならざる得ない心境に陥らせる「胆汁質」な味のエリクチュールが偏在しているのも確かな次第。
(*)エルネ・レンドヴァイ著「バルトークの作曲技巧」での黄金分割との関連

 それは音楽が表出しようとした音彩より構築原理の先行して追従が著しいゆえに、その構築以前に演奏家が疲弊してしまうジレンマに陥るやもと所見さるるが、今日はそれらを越えてその価値観の新たな局面や初期の作品などが再発見され、すでに過去の症例となってもいる次第でもある。

 その辺ではミヨーとシンクロしたように作ったミニミニオペラ歌劇「行ったり来たり(Hin und Zuruck*)」Op.45aの作り方の違いなど見れば一目瞭然でありミヨーがギリシャ神話のアリアドネネタをラテン音楽で暢気に書く矢先に、ヒンデミッドは殺人事件沙汰が時間逆行で元に戻るような筋書きとおりに調性は維持したシンメトリで書き連ねるというよな硬さという違いようにて候。詳細はオーマンディなのでこれぐらいにして、話をオーマンディー/フィラデルフィアに戻しておきます

 あまり聞き物としては渋いヒンデミッドも、ナチスからの亡命先のアメリカおよび連合国では少々扱いも違い、戦後のナチス排除後のウィーン復興の担い手として重宝しており、かなり知られたことは確かあり、そのようなあたりでアメリカの音楽への影響も十分にあったのはたしかであり、それらを念頭に聞くオーマンディーの演奏はそのようなレパートリの名残あたりでのとりあげも邪推される反面、しかしその演奏技巧の余裕にて、まったく演奏家が、そのヒンデミッドの書法に懐疑的になっていない状態を聞くことが出来るといった、貴重な瞬間を提示する驚異の意義が存在を誇示する次第もありなん。
交響曲「画家マティス」(Symphonie "Mathis der Maler")
の第一楽章の「天使の奏樂」からの、高き所からの和声を背景に出現するグレゴリオ聖歌風の旋律が、相反する緊張度の高い対位法で紡がれる音楽において、通常は調和と緊張ある不協和に管弦楽がすべての音の動きを埋没してしまい、故に「何」が起きているのか不明になる事態が多い中、オーマンディーのフィラデルフィアの器楽の音色は、モザイクタイルのような構築を想起させるように、それらをわかりやすく聞かせるあたり圧巻であり、最初から「おなかいっぱい」は(笑)覚悟は必至、そして、後に続く、葬送と聖アントニウスの試練でのオケの色彩感は、ヒンデミットの構築書法を肯定するかのような面持ちで聞き手を音彩で圧倒する次第であり、もはや演奏家と聞き手に懐疑など持ちようも無い状況になる・・・・果たしてこれがヒンデミッドの真なる姿か?といえばそれは多いな疑問符となりえるが、今まで聞こえたヒンデミットも決して書法を万全の状態で表出していないことも感じられるような気にもなる、そして・・・それらを踏まえても嵩じがたい魅力を放つ演奏がオーマンディの指揮で繰り広げられる。

正にヒンデミットで感覚生理的な「感じ入る」ことのできる唯一演奏??
オーマンディーは1967年にはコンセルトヘボゥで当曲演奏(未聴)しており、そのライヴステレオ音盤も存在しその点から相当掌握していた自信あるものであることも想像しうる。
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by dr-enkaizan | 2005-03-15 21:45 | 解説のない音盤紹介

没後20周年オーマンディー記念-外伝「考えるな、感じるんだ!!」(3)プロコフィエフ(2)

オーマンディーのプロコフィエフ

 さて次は代表作の交響曲第五番変ロ長調
当曲はオーマンディーは50年代のステレオ初期にCBSへ録音しRCAへの70年代に録音、共にそれぞれの世評を持つ次第にて候。
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 これもかなり初期から積極的に扱われており、それゆえにオーマンディーの当曲への演奏は両録音での年度に比例刷るかのように円熟を増していることを観察出来る次第にて候。

 ことさらRCAの録音では常にテンポを遅めにとりながらも、動きは滑らかに統制して音楽の躍動は失わない、音楽の間合いを保てるという課題を解決できるであろうと言う?オケの技量への信頼を前面に押し出した観が強い。
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 それは遅い第一楽章に第三楽章では、フィラデルフィアならでは歌われるメロディのみならず、その橋渡しをする和声の背景の推移まで補強しているアテギュレートが施され、前者のその構成への捕捉が第一楽章は人知を超えうる人工的な強大な歌の構築物となり、第三楽章では怪しげに推移する音彩の美しさが我々を魅了する次第。

そしてプロコや一部のソビエト音楽にありがちな、よい意味での幼稚な喧騒に満ちた音楽の代表であろう、第二楽章・第四楽章でも、そのレジョーロな表現の音楽で無視されやすい細やかアテギュレートの追従も慎重に行われ、非常に多彩な表情を引き出しており、オーマンディーが厚塗りの演奏をする世評に対して一つの疑問を投げかける症例の一つと指摘さるる。

 第二楽章の冒頭のメロディが弦楽に移行したときの、次第に少々表情豊にアクセントとポルタメントを加えての歌いこみは弦楽のアンサンブルの余裕を堪能

上下クロストローク普通はメカニカルな伴奏まで一緒に歌い出すような様は、器楽が鳴り響くノウハウを知り尽くした証に他ならない次第

 スケルツオの主用主題提示終わりにに挟まる一瞬ながら軽やかなフレーズ(練習番号31time1:31秒)の弱音器を付けたファースト・ヴァイオリンの音色感とりズムを際立たせすあたりで通常のファゴット二本による交代で実現する、ターンクロストロークするアルペジオの伴奏が比較的目立たせ、アンサンブルの乱れを防ぎ、僅かな金管の合いの手を背景上に現れる弦楽の16分音符の動きの乱れを防止しており、よく縦の線を抑えるためにオケが変になる「恐怖の難所」(つーち氏)をそつなくこなしきる。
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やがてくる三拍子のトリオの前にでるインターミッションのようなロンド主題も丁寧であり、この主題に付けられた終わの音のmfからのデクレの自然さは滅多に聞けるものでは無い次第。
(練習番号36 ime3:05と練習番号47 05:36)
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さらにスケルツオ復帰の前に機械的な音楽で剛直な木管と金管が堪能でき、普段は聞けないようなクラリネットとバスクラリネットの一瞬のインパクトすら聞き取れる驚異の瞬間(6:41のところ)
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これはあまりにスコアに書かれていながら最初のフルートでのインパクトに呼応している必要性を感じさせるように演奏されいて、感心をたしめる部分也。

など盛りだくさんであり、第四楽章ではさらに豊かになりもはや聞くほうが早い情報量の演奏を展開する。
明らかに旧録音と比べると当演奏は成長の度合いが著しくまさに円熟の境地を堪能セル事は必至なものにござ候。

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さらにカップリングのピーター狼は子煩悩な契機によりナレータをかってでたという、デビット・ボウイのナレーションに華を添え、現代最高のピーターを此処に垣間見ることも此処に記する。
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by dr-enkaizan | 2005-03-15 02:50 | 解説のない音盤紹介

没後20周年オーマンディー記念-外伝「考えるな、感じるんだ!!」(3)プロコフィエフ(1)

さて継続企画物の再開を命日近くから始めるもの也

オーマンディーのさらに適正あるう音楽として。ロシア・ソビエト音楽にある点は、やはりその管弦楽の機能と比較的単純なわかり易い書法、また多数の見せ場を持つ故にあるのかといえば、それ一辺倒では言い切れないスクリュアビンの「法悦の詩」「プロメテウス」などもなり、その要因の掌握は困難極める次第。

 おそらくむしろエキセントリックな面をわかり易くする職人冥利ある音楽がオーマンディーとの適正をもつのかとも所見さるるもやも・・・。

 それらの適正ではプロコフィエフのいくつかの楽曲はオーマンディも何度か録音をして、少々深入りしている者たち世評も高きものの一つとして言及せずにはいられないものにてござ候。

 とりわけ「クラッシク招き猫」でもかのプロコ春祭達人のつーち氏とのやりとりでも、しつこく推薦したカンターター「アレクサンドル・ネフスキー」はオーマンディー・フィラデルフィアのRCA時代の美点120%の名演奏として屈指のものであることは言うまでもなき次第は、まずは聞いていただければご理解いただけるものど硬く信じているものにて候。

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再発売をして購入の「つーち氏」が
>面白すぎです。
言わしめてしまうほど、
氏の所見を拝借すれば、録音は少々歪ながらマルチマイクでプロコフィエフの独自の管弦楽の効果あるところをピックアップ。ともかくゲルギエフの録音を聞いては「ハァ」となるぐらいの迫力と畏怖に満ちた録音に仕上がっており、音楽は熱血に進められることは必至な演奏が展開する。

 プロコフィエフが自らのエーゼンシュタインへの映画サウンドトラックを国威高揚のカンターター仕立て上げた当曲、その音楽のわかり易さと利き所からアメリカでも早時期に取り上げられ、ストコフスキーのNBCでの紹介につづく二度目の紹介はオーマンディーによりなされたもの。

それゆえにこだわりは確かな演奏の成果となって現れている次第で、当音盤に独自の感慨あること必至。

 内容を追うと・・・前奏曲の「蒙古の圧制にあえぐロシア」の冒頭の弦楽と金管の大見得は凄まじく、全音域に力みが伝わり、ビジュアルな強烈すらあり、その中から蒙古の恐怖を印象付ける主題がコラージュされる背景のトレモロすら確かな質感に溢れしもの。


 そして合唱による敵味方もしくは平和・戦争のキャラクターが分かれる二曲「アレクサンドルネフスキーについての歌」に「ブスコフの十字軍」は明確に表出され、十字軍のほうは金管の和音と打楽器のショックインパクトな冒頭から、蒙古や戦争恐怖を意図した主題が男性コーラスにより歌われ、郷愁と独特の迫力ある音楽が展開されるが、オーマンディーの弦楽の美しさはロシア叙情においても見事に身のあるものになっており、一度オーマンディーをイージに考えている方々はこれを聞いてから、「イージー」かとうかネットで発言しても遅くは無いような気もする次第。
 ラストの低音を残した余韻あるコーラスの処理には、プロコ通の「つーち」氏も凍りつく恐ろしさであり、非常に印象深い瞬間。

 そのあとの「立ち上がれロシア人民よ!!」の飽和したような鐘・金属打楽器に金管の咆哮そしてシロフォン刻みがある、イントロはオーマンディならでは華々しさと迫力であり それはゲルギエフよりも圧倒的で、しかも派手さと迫力があり、ゲルギエフに期待して大いに裏切られた恨みあり(笑)という次第。

 間奏で弦楽のささくれない表情の豊さは、それらに出現するプロコフィエフの不可思議な民謡を変調したメロディそして、伴奏に出る特異な伴奏や音階のアラベスクなどを堪能するには相応しい掛け替えのない能力が我々を魅了する。

本曲最大の見せ場「氷上の戦い」はテンポも適切、打楽器の技術も確かであり、合唱と器楽か一体に咆哮することも外すことなく説明は不要の面白さ、二度にわたる管弦楽の不協和な咆哮にシュプレヒする合唱の部分は背筋に寒気が揚がる程の素晴らしさ。

そしてカタストロフィーなクライマックスのホルンの伴奏に弦楽が絡む部分から、ロシアの主題による静寂にやさしい音楽になる部分の弦楽はまたしもオーマンディーサウンドの弦楽!!

そして発音が多少歪なメゾ・ソプラノがかえって効果的な「死の原野」をへて、またしても鳴り物大活躍の冒頭の「アレキサンドル・ネフスキーのプスコフ入城」にいたるあたりは、この管弦楽団の技術は、芸術論に誤魔化されない価値あるものであることをことさら認識させらるるものと所見さるる次第にて候。

さて次は交響曲五番へ筆を進めるもの也・・・・暫し待たれよ。
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by dr-enkaizan | 2005-03-12 22:44 | 解説のない音盤紹介

没後20周年オーマンディー記念-外伝「考えるな、感じるんだ!!」(2)そして肉欲の海に溺れラテン物

ショーソンの前にオーマンディへまた復帰

何か各方面で話題になる次第誠に恐縮する次第。
精進しても限界ある己なれど皆様の興味頂けるを糧にする所存。

私信#斉諧生様非常に恐縮です#

 さてオーマンディのオケの豊穣さは作品の主義の本質以上の流麗なスタイル形態の様相になる時もあり、この辺が好事の高次たる愛好者に評論家あたりでその作品の時代のイズムに沿うか沿わないことに言及することにより、見事な批判的攻撃も出来ること事実。

 これは書かれた作品の即物的な状態より、イズム(主義内)での尊重さるる事多き作曲家にて、評価が割れるのはドイツ音楽に一部のラテン系楽曲に北欧のシベリウスあたりは端的なものであり、長らく不遇の扱いと評価を受けていた時代があり今日に到るは周知のとおりにて候、むすろスタイル(造形的修辞特徴もしくは書法的な技法に美麗を見出せる)的なものが重視されるスラヴ的楽曲やチャイコフスキーにラヴェルなどには評価が高いのはその側面からオケを論ずる手間を曲の真価と兼ねられるゆえの安易理由とも邪推される次第。
 過去の著名な出版にて幅を利かせていた悪意アル評論の「その手口」ともいえる切り口は?曲本来の先入観からその書かれた音符の即物的な状態を、検証しないで無造作にオケの豊穣さを非難する論調が殆どであり嘆かわしい先人の汚点。僭越ながらオーマンディーの譜面から鳴り響くスタイル的側面の趣旨を即座に判断推理して、相応しい状態にする形態操作掌握の素晴らしさと、それをフェルメノンできるオケに意図を読み解くことのほうが好事として識者行う評論とも思われる所存にて候。
  確かに多くの本場ものとは違う様相になるが、ゆりかもめさんの言う感慨が正解とも考え
「バストが大きくキリッとウエストが締まって、ヒップが大きめな思いっきり豊満な金髮ミセスに抱かれ包まれる歓び。」

かの如しオーマンディー豊穣な音に抱かれる事の意義として、我々は音楽の事象を主義を踏まえたうえで、それを超えたスタイルの次元での掌握による次元での「造形変性や操作への側面」での評価の触感的な体系化を望むことにあると思う次第にて御座候。

まさに多様化した価値と積層著しい記録は斯様にして有効に生かされなければという感もあり「感じる事へ」の意義が評論のポストモダンの先也や?

そんなオーマンディーの側面はまずは。
イベールの「ディベルティメント」と「寄港地」によって堪能されるもの。
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多くはフランスの印象を重視される事多き楽曲なれど、「ディベルティメント」におけるそのソロの映えるラヴェル的な管弦楽法の巧みさは、この演奏により真価を発揮するといっても過言ではないが、フランスのしゃれと言うより喜劇戯曲の純粋なはしゃぎぶりにこの曲の重点があることをむしろ感じさせるとこころがあり、「寄港地」においては若干イベールの持つラヴェルのそれとは違う東洋というよりよりアフリカに近い、民族音楽への土俗書法的接近はかなり犠牲になっているのは確かにて候。民族的語法は如何様にしても後に言及するファリャなども含めオーマンディの演奏では小さな了見として寛容にならざるべしものなのは確か。
カップリングのルーセルのバッカスとアリアドネ第二組曲は、ルーセルの硬質の響きが丁度バルトークの語法に接近しており、それ交響させることの何かを知りえてる当団とオーマンディーの独占状態でもありミュンシュの名演奏に肉薄する次第。しかも残念なのはカットもミュンシュのそれを踏襲しており、おそらくミュンシュ客演時の伝授の可能性もあるが決して当団に相応しいかと言うと?欠落された箇所でのトランペットの技巧の箇所など考慮すると非常に残念な次第でもあり。


つぎにファリャの「スペインの庭の夜」はアントルモン*を迎えたの成果ありで、むせかえる官能にピアノの心地よき夜風の対比が聞き所であり、ファリャとしては希薄なテクスチュアの聞こえの楽曲にこれほど、聞かせ所が感じるのも珍しいというより、これこそがオーマンディー発掘した聞かれるべき音の真価なのかと感銘受けた次第にて、中間部の安定してトリルに歌われる、木管の巧みな歌は非常にわかりやすいスペインであり、イスラムのアフリカ的側面は少々薄いが雰囲気に誤魔化すことのないオケの技量の直球勝負にて候。
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*自己修正報告カサドシュから修正いたしまします、どうもミトプーNYPのカサドシュを混同しておりましした。*2008/05/27

そして「三角帽子」組曲はとめる者はいないのかと言うぐらい、曲想を超えた音の宴が爆発する、もはや「粉や踊り」から「終幕の踊り」に向かって多少ゆっくりなテンポだがそれを忘れさせるファリャの書かれたスコアのダイナミックさをフォークロアという枷を外して暴走させると言うような状態。

正調の」アンセルメの演奏と比べると?まるで民族隆起でもおきたのかとも思うような「三角帽子」しかしながらファリャは斯様な可能性あるスコアを書いたのも事実と言うことであり。

これらは?主義は歴史により忘れ去れるが造形は歴史に沿うよう受容さる容姿に変容して残るという理の存在を感じる演奏を記録した音盤、ゆえオーマンディの真価と問題知るには最適也
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by dr-enkaizan | 2005-01-25 04:22 | 解説のない音盤紹介

没後20周年オーマンディー記念-外伝「考えるな、感じるんだ!!」(1)レスピーギ-

 さてここでは提灯な絶賛しまくりのオーマンディー指揮するフィラデルフィア管弦楽団だが、弱点としてはそのオケの技術性に相反して、芸術的評価で評論者から真っ当な評価が得られていない点にてご座候。これは一部の作曲者からも侮蔑的な「スルー」な関係を強いられたことも然り。

 それは、暫し当団の創意および技術鍛錬の成果である豊穣の音彩がこそ作品を「ペンキ塗りの状態」にしたと非難される旨であり、暫し伝統的演奏ならびに作品の誕生した諸国の「お国物」の演奏などを引き合いに、あるいはその的確な技術で安定した表情に、「いいががり」的といえる精神性などの不明確な情緒で評価を帰結して、多くの演奏が非難されることおおくそれを真に受けた購買層と販売層により当団の功績多き記録が埋没され憂いイル事多き今にいたっている次第。

 たしかに「作品と芸風」の適合や、一部演奏上効果においての器楽の変更に、大編成志向、それら等においては現在の表現常識の水準ならびに、あいまいな定義ながらも「有り難味」ある種の「芸術的啓発に欠く瞬間」も存在するも事実なれど。しかし、その豊穣の響きこそは作曲者の書いた譜面の即物的な響きを追求した結果もあり、それは時に作曲者も思いもよらない、スコアの果てにある自発的な偏在する音自体による「音楽の揚力」はたまた「エネルギー」を此処に提示せんとするものである可能性に至ること否めなく、見逃せない当団とオーマンディーの演奏の本質と所見さるるも似て候。

 ここでは作品のその響きの果てが聞ける音盤と、さらに芸風と適合に問題はあるが、背景を考えなければその音に素晴らしい感触を感じ入る音盤を一部始終取り上げる次第にて候。

 考えるな、感じるんだ。Don’t think. Feel!(燃えよドラゴン、ブルース・リー)

 さて燃えよオーマンディな音盤をいくつか連載

 不遇のオーマンディーながらもちろん定番されるものありて、その点ではやはり内容と質共に例外的に評価が高い最初にレスピーギの演奏でのオーマンディーの仕込みは鉄壁であり、代表作「ローマの松・泉・祭」の「ローマ三部作」は、もはや作曲者の管弦楽とオケの適性は、余裕で上回るような拡張的変更もあるぐらいの演奏をここで提示する。
CBS時代にローマ三部作を初期に1968年ローマの松と噴水を録音してRCAに1973再度三部作を録音現在に至るまで定番になる経緯をもつもの。

 ここで紹介するほどまでなく当たり前の必携盤にてござ候。もうベストでは何度も発売されている次第。
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 中世グレゴリア旋法と近代和声による色彩書法の楽曲が大編成管弦楽上の近代管弦楽法にて巧みに表出されたこの楽曲は、誠にこの楽団の威力を示すもの也。

しかしこれに陰に隠れた録音にある同じレスピーギの作品集はさらにそれが楽曲の著名に頼らないでも十分な力量を示すことを証明する。

それは「教会のステンドグラス」とクープラン(修正パスクィーニやラモー、ガロ)のグラヴサン小品などの古典以前の音楽を下敷きにした組曲「鳥」の音盤にて候

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教会のステンドグラスは旧作ピアノ曲集を一部変更して管弦楽編曲し、さらにオリジナルのフィナーレと聖書と黙示録などのを題材にしたテーマを与えて再構成さるるもので、三部作のレスピーギらしい豊穣な傾向の作品、しかし「ローマ三部」作とくらべると聞きなれない特異な器楽法の瞬間もあり、他と比べるとしょうしょう「ダゥナー」要素と、にエスノ的もしくは中近東的要素とグレゴリア的要素が強い作品で通常の楽団では禁欲的な響きに留まる楽曲でもありなん。
 これをオーマンディーは豊穣な管弦楽をもって、壮絶な絵巻物としてローマ三部作と褪色ない管弦楽として提示する次第。

第二曲の「聖ミカエル」の黙示録の題材の悪魔軍との戦いでの「嵐のような上下する弦楽」と「逞しいグレゴリア調の金管のメロディ」の巧みなバランスから、舞台裏トラペットの光に最後の大見得と銅鑼の一撃まで見事な「話の絵が浮かぶ音楽」として聴けてしまう次第。
 ちなみに同作品を再評価させたジャンドスのジェフリーサイモンの仕事でもあくまでも音響的なスペクタルにしか聞こえない作品がこのように音楽としての効果で聞こえる録音があったのには後から聞いた世代には大いにオーマンディ恐るべしの思い「ひとしお」でありなん。

 サイモンに対してオーマンディーの演奏にはレスピーギの音楽に潜む、パート間での旋律的色彩和声音程の要素への意識が端々に見えており、詳細は語りたいが煩雑ゆえに短くいうと、レスピーギの楽曲書法での折衷的な使用が目立つ「和声的音程関係の使い」において。その旋律の補強色彩での使用(オルガヌムや並列進行)と伴奏的や躍動への機能性(累積和音の解決や協和音程への配置)という使用の複合性に対し、均等な器楽の音色をもった前提での「単純な図式」で見切っている根幹の掌握にこそ、この演奏の分があると思える次第にて候。この辺が対位法と機能和声を不明瞭な管弦楽で見切りにくいブルックナーの表現においては主旋律の突起した演奏として違和感を持たれた要因になる次第だが。これはCBSのブルッナーの五番においては、例外的に、モノフォニックナ転調くりかす主題提示振りにその色彩の見切りが生かされ、内向的器楽欠点を補足する演奏方針でなされて、いい持ち味になっていること此処に報告セリ。
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(但し語弊なきように注意しべきは通常のいわれるブルックナーという範疇を考えない点での限り)
カップリングのメインの「鳥」はもはやレスピーギかクープラン(修正パスクィーニやラモー、ガロ)かはどうでもいい、幸せな音の瞬間によってつむがれる「鳥」達の様にに堪能セル以外の術は無し。

もはや感じる入を語ることこそこの音楽の本質は・・・・やも知れぬ次第。
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by dr-enkaizan | 2005-01-15 23:01 | 解説のない音盤紹介