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六国峠@ドクター円海山の音楽診療室-無用な営みの、えも言われぬ、この上なき喜び

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<   2005年 01月 ( 25 )   > この月の画像一覧

イシュタルの不遇(1)そのさわり「教材何処で仕入れすんだ?」

ショーソンの合間に出た作品ヴァンサン・ダンディーの交響変奏曲「イシュタル」について小さく連載
近年フルネが取り上げている秘曲扱いの不遇な曲
現在別途に後述CDも一種類(デルボー盤"Istar / Wallenstein"Pierre Dervaux (cond) Orchestre Philharmonique des Pays de Loire )が現在入手し易いのみ。
国内盤もしくはフランスのEFシリーズを逃せし時ダンディ:ヴァレンシュタイン&
ロワール・フィルハーモニー管弦楽団 ダンディ デルボー(ピエール) / 東芝EMI
ISBN : B00005GJVF
スコア選択:




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運が悪ければ三枚組みでしか入手できない。
しかしながら。古はダンディーの代表曲だった痕跡はある
かつて横●の山の手の婦女子の学び舎の教科書の片隅には。
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とあり、となりにこれまたRシュトラウスとしてはコアな「イタリア」がある

がさて?これ聞かしている学校あったのか?不明。
(続く)次回は曲に付いては不定期なる出現の次回に。
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なおダンディーには歌劇「異邦人」がというマルコポーロで抜粋でしか聞けないもっと不遇曲が・・・というと限がないので・・あしからず。
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by dr-enkaizan | 2005-01-31 02:17 | クラシック

エルネスト・ショーソン生誕150年 クロニクル 管弦楽曲(2)交響詩「祭りの夕べ」

 さて、「ショーソン」が必ず「バイオグラフィー」に登場する作曲家にドビュッシーがいる、次回に後述の通りショーソンはドビュッシーの「選ばれし乙女」の国民音楽協会での初演が縁にて、時期不幸なるゴシップ的トラブルで仲たがいをしてしまうまでは、生活の援助に芸術上の意見交換をするほどの信頼関係があった。

 そのドビュッシーに対する、友好関係が親密であったショーソンの心情は複雑で、たんる友好の裏に、派閥に収めないと自分を超え最強の敵になるドビュッシーへのなんらかの根回し的な行為もあるようにも向けられる事多々に感ずる時代にて候。

 単一の価値観が横行していた19世紀後半から20世紀の芸術のアプローチにおいて、芸術家たちが身を定めたアプローチで、その座標の典型的対極は主義(イズム)と形態修辞の操作(スタイル)にある。

 丁度、幅広い友好にワーグネリアンの芸術家達いるショーソンは、その音楽語法においても当時のワーグナーの音楽語法に身を置くフランクに師事しており、その師匠譲りのワーグネリズム反映多き「循環主題」と無限旋律的な微細な旋律挙動による組み合わせによる「うねる旋律」をといった、当時の潮流の証のような書法を根幹に作品を輩出していったことは音を聞くことによっても明らかにて候。

 芸術家の脳内では両者の狭間で論理と形態、さらに技術との演繹的なフィードバック行われそれは完成直前まで吟味が行われている次第。

 要するに二者択一ではなく両者への配分により成されるのということにて候

 この時期の作品を見ると、当時の主流のイズムが先行したのか、創意による形態修辞操作による自己表現を優先確立したのか興味深いぐらい観察出来る次第でありなん。

 丁度ショーソンの音楽も丹念に数少ない作品をみると、前述ショーソンの言説のほかに観察しうる、周辺者のスタイルと当時の潮流の影響のイズムがいたるところで拮抗しており非常に興味深い次第である、たとえば今後扱う交響曲に「イズムの典型」たるワーグナー張りの半音階調性とライトモティーフがあるかと思えば、時に第二主題の直前の確保後の推移の東洋的欠落音階の伴奏的フレーズの出現などの当時のパリ万博での時代の流れに沿った派生表現を試みるだったり、ルドンの「人面物シリーズ」の絵画及びリトグラフを直接的想起しうるような、師フランクゆずりの循環主題の書法よろしく旋律フレーズの微細的展開によるオブジェ的配置による自由な展開など、後述するドビュッシーらのそれとは幾分控えめながら、衝動的形態操作に主眼がおかれるスタイルの瞬間がある。

これは当時のパリの聴衆の聴覚を刺激したのは「ワーグナー」でありその主義に則って、代表者マラルメの提唱した「象徴主義」の旗のもとそれぞれの配分で創作を行っていたことの一例でもありなん。
 

 さらに主義とスタイルによる作品が出来ると、作者の言説無関係なところで、スタイルの範疇が他の芸術家を刺激して模倣分析対象になり、それを新たな題材及び論理として主義体系に組み入れ、別のものが作品を輩出するといった具合な単純なプロセスが、諸芸術間で一部に誤謬を含んでの「連携」と「やり取り」がされていた可能性が強い。

あるものは主義に捕らわれ硬直気味の堅牢な作品を造り、あるものはそこから脱却もすく派生すべき新たなるスタイルの追従のみ目論み衝動のみを作品面に書き連ねるといった状況であり、また人間の感情面への影響を様様に模索する結果イズムをイズムとして捕らえないスタイルとして、一部の書法的な結果を現象的側面から捕らえる事態にも展開する。

 それは同じジャンルに措ける芸術ではいっそう激しく対抗的にもなるぐらいの、双方の影響が見て取れる。

 たとえば音楽では同じワーグネリズムでもロシアでは、丁度チャイコフスキーが前者で「五人組」が後者であり、チャイコフスキーのアカデミズムの教養に組み入れたエリクチュールに沿った主義の追従は、その作品の流麗な面持ちで広く人気を集め普遍の価値を誇るが、書法的発展は、「ワーグナーへの」という限定的視点に限ると・・・・幾分影響よりは後ろに時代を見るところがあり、同主義に対するリムスキーコルサコフの管弦楽現象の特化した発展、無調というより調性の概念が無いところまで行くムソルグスキーの旋法もしくは、音程移動への固執、ボロディンのワーグナーの9の属和音への注目と民謡導入という書法的な特異な発展へのインパクトと比べると何ら新しい物を得られなかった(作品の価値は等価であるこというまでもなし)あたりが説明しやすい事例でありなん。

 ここでのショーソンとっての対象には同時代人ドビュッシー・ダンディーそして師フランク・マスネーそして傾倒したワーグナー、さらに遠からんあたりにラロ等他への対抗模倣する意識が偏在していた可能性がありなん。

当時のフランス国のフランク、ダンディーそしてショーソンらも、音楽的にはフランスにてワーグネリアンな書法を実行すべく、”無限旋律”と”トリスタン和音”(*1)効果的なライトモチーフといった偉大なる手法を踏襲しており、濃厚な音楽シーンの発展に寄与していた、無論ドビュッシーなども初期においてはそれらを踏まえていることが観察てきる作品が存在するのは周知の通り。


それは一つの記号として一例を提示すると「トリスタン和音」の使用においてもその興味が両者での興味が大いに異なっていたことを物語り、前者がワーグナーの機能和声上での使用に留まりその多くはワーグナーが使用したのと同じ効用での表現の深まりへの応用が興味の観点であるのに対して、後者は記号論的な、意味や機能を離れて多義性のメカニズムそのものに関心を寄せる方法論の動議立てとして興味が向かっていて前者が考えも及ばない領域へそれを使用するに至っている。
拝聴する皆様はよもやトリスタンの前奏曲での「それ」とブルックナー交響曲九番のスケルツオの向き上下するピッチカートそしてショーソンの交響曲の前半など、当和音がその後の作曲家に与えた影響(シェーンベルクにベルク、スクリュアビンなどの機能的複雑化を頂点に)は顕著ながら、ドビュッシーでのそれはステリィー風タランテラの中間そして牧神の最初のハープとホルンの対話までは(多少ロープ)良いとしても、サラバンドや海での平行進行での展開に同質の和音構成音程をもつものとは思いもよらないには必至、もはやドビュッシーには、内在する二度と増四の解決が必要な音程が多義的な調への属和音として機能知得ることよりも、その「音程」の発生する不整合な倍音の持つ音色(オブジェクトソノール)として興味が支配を強めていたことの表しとして知らしむる事の例似て候。

さてそんなショーソンがドビュッシーの語法に挑戦するが如し意欲で作曲したのが、この交響詩「祭りの夕べ」(1997)とも推測できるほど、この曲にはショーソンの置いた立場への逆説に満ちている音楽が展開されている次第。


交響詩「祭りの夕べ」(Poeme symphonique "Soir de fete"*)Op.32


 音楽はブルックナーをご存知の方なら、少々ニヤリとしそうな、盛り上がりかたなトレモロに断片的フレーズが絡んで半音階に段階を経て不安定に盛り上がる前奏から、一気に民族低舞踊の三連音リズムが支配したフレーズに駆け上がり、ダンティーの「フランスの山人」に近い雰囲気音楽の様相になるが、その躍動感は三拍子系のリズムと微細な三連音の何れかに支配されることが多く、むしろドビュッシーの弦楽四重奏のスケルツオか、そのフォーマルなモデルのラロのバレー音楽「ナムーナー」あたりをうかがわせる。

そして次に音楽はトリオを早々と迎え、次第に大人しくなり、「夏の夕暮れ」のような心象風景に移り、そこで展開されるのは、牧神午後以前のドビュッシーの「選ばれし乙女」や「ピアノと管弦楽のための幻想曲」幾つかの歌曲集(*2)の伴奏に見られる9の属和音や、弦楽やハープそして木管で提示される、その音組織上での上の声での刺繍進行による時間補填に代表される豊富なドビュッシー流の音組織の世界である、そして夏の空の如し弦楽の持続にホルンオスティナートで背景の息の長いクラリネットの歌が歌われて弦楽へ受け接がれつつ木管が挙動する、そしてと遠くに金管が冒頭のファンファーレ的でもある断片的フレーズを演奏して、しばらくの余韻の後突然隆起するように復帰そしてロシア五人組のバラキレフの「イスラメイ」風な装飾展開の変奏を受けて、また大人しくなり、今度はタンバリン系の膜質打楽器で刻まれる連打するワルツの拍動にフルートがメランコリック歌い、それが管弦楽に厚く受け接がれ素朴に盛り上がり、管弦楽は絶頂をティンパニで迎るが、ティンパニが残りそれが減衰し、中間のトリオが回想され夏の祭りの終わりの儚さを表意し、さらに高音域の弦楽を背景カントルーブの「バイレロ」の元ネタか思わせる管弦楽テクスチュアのコールアングレイによる祭り主部の主題がやさしく祈りの感情を持って回想され、最後は高音域の弦楽積層するなか、ハープのアルペジオで夢想的に終わる。

 これを聞いたあとではドビュッシーのステリィー風タランテラはその主部とトリオの雰囲気が似ており、その静まる終わりはショーソンの義兄のルロイに書簡で言及していた、「たそがれの情景」の果ての作品「三つのノクチュルヌ」の祭り髣髴とさせるもの。

 この時期のショーソンのドビュッシーとの関係は次回に後述する1994年のドビュッシーとのガブリエル・デュポンとの婚約へのドビュッシー自身の恋愛二重生活の露見による破棄などにより、完全に疎遠なものとされているが、じつにまるで書法を見ると後のドビュッシーの動きを予見するような内容に満ちている次第。

抒情劇「アルテュス王(Le Roi Arthus)」Op.23の製作にあたりドビュッシーのペレアスの影響をおそれ、

イザイの前で試演された「ペレアス」の第一幕の断章を視聴するさいひどくショーソンは恐れ、その旨を義兄のルロイにあての書簡に「彼の音楽が限りなく自分の気に入って
しまうことを、私は前もって確信している。そして私は最後の哀れな「アルテュス」の最後のことで動揺するのが怖い」と書き記している。

 それほどドビュッシーの音楽を怖がっていた人物がなぜ?思いに駆られるところがあり。
牧神以前のドビュッシー風の書法でラロも見据えさらに、ロシア国民楽派までのフォーマルな小道具を仕立てた肉薄した語法の曲を書くことで、音楽上にドビュッシーの進路に立ちふさがり再び興味をもたれたい深層心理を垣間見ることも出来る次第とも診断さるるが、如何ななりや?。

 ちなみにドビュッシーはペレアスの素描をいつも的確な批評と批判を忘れないてしてくれる律儀な(笑)デュカスに聞かせるのを恐れており。そのデュカスは「ペレアス」の後にその補填的なテクストの意味合いの「アリアーヌと青髭」を書いている。

 ショーソンの「アルテュス王」そしてデュカスの「アリアーヌと青髭」はドビュッシーペレアスと並べると書法的接近など含め興味深い意味合いを醸し出すのだか?この二つの音盤は、フランスのエスプリと持て囃されるご時勢なぜか?いまだもって希少な物な事甚だ遺憾な次第。この辺が近代フランス音楽と自負するような愛好家のサイトがダンティーの欄でイシュタールも紹介なくフランスの山人と止まりでも、「その道筋」と雑誌に紹介容認さるるような(笑)日本のフランス近代の認識というか?国際的規模での全体的な浅い扱いの現れか?ケクランの再評価の次はこの辺を期待したいのも確か似て候。

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これにくわえ青髭もジョルダン録音・・・・・偉いぞ・・そのへんだけ「ジョルダンは神」

      ___    
    く/',二二ヽ> 
    |l |ノノイハ))  <シャブリエの「星」なんかもそうだ
     |∩#゚⊿゚ノ∩  !何とかしてくれぃですぅ !!
   ノ l_|(l_介」)丿 
    ≦ノ`ヽノヘ≧ 
.   ミく二二二〉ミ

音盤は前述のプラッソンの音盤
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(上記は国内発売時ジャケットリンクと別)のほかにジャンドスでフランス音楽に怪気炎をはいている息子トゥルトリエのChausson: Symphony in Bb, etc / Tortelier, BBC Philharmonic
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やそれ以前のジャンドスのカタログラインナップだった、のんきな管弦楽に問題あるが、ホセ・セレブリエル指揮のOrchestre Symphonique de la RTBFでの交響曲貴重な「テンペスト」OP18から舞曲二曲管弦楽とのカップリングなどが存在

しかしプラッソンの演奏がかなり落ち着いて聴ける次第。

 なお当曲の後に1906年に作られたショーソン未亡人にささげられたショーソンの残したサロン常連人のスペインの才人アルベニスの「イベリア」第一巻の「セビリアの聖体祭」の構成に後半の終わりもなにか「祭りの夕べ」に酷似しており、譜面を見たか聞いたか?それともさらに音楽以外の儀式的宗教的なフォーマルなモデルがあるのか定かではない様相を呈す。
ピアノオリジナルでもアルボス編曲でもストコフスキー編曲でも良いから、共に聞くことを推奨する次第。
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ショーソン夫婦


      ___   ♪
     く/',二二ヽ> 
     |l |ノノイハ)) )) フランス近代受容もすこやかに~のびやかにぃ~
 ((  |l |リ゚ ヮ゚ノl| 
     ノl⊂l_介」つ0匚lア ミミ
    ≦ノ`ヽノヘ≧     ミミ
.   ミく二二二〉ミ     ψ

もしフランス音楽のページを自負しているまだ知らぬいとしき君らよ?

君のページのダンティー紹介には「フランスの山人」以外はあるか?(笑)

無くてもいいからその「意気や良し」ともかくガンガレー
これはなんかのメッセージなのかしら?

気に有無もとい病む事無し。

            
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by dr-enkaizan | 2005-01-30 06:37 | 解説のない音盤紹介

没後20周年オーマンディー記念-外伝「考えるな、感じるんだ!!」(2)そして肉欲の海に溺れラテン物

ショーソンの前にオーマンディへまた復帰

何か各方面で話題になる次第誠に恐縮する次第。
精進しても限界ある己なれど皆様の興味頂けるを糧にする所存。

私信#斉諧生様非常に恐縮です#

 さてオーマンディのオケの豊穣さは作品の主義の本質以上の流麗なスタイル形態の様相になる時もあり、この辺が好事の高次たる愛好者に評論家あたりでその作品の時代のイズムに沿うか沿わないことに言及することにより、見事な批判的攻撃も出来ること事実。

 これは書かれた作品の即物的な状態より、イズム(主義内)での尊重さるる事多き作曲家にて、評価が割れるのはドイツ音楽に一部のラテン系楽曲に北欧のシベリウスあたりは端的なものであり、長らく不遇の扱いと評価を受けていた時代があり今日に到るは周知のとおりにて候、むすろスタイル(造形的修辞特徴もしくは書法的な技法に美麗を見出せる)的なものが重視されるスラヴ的楽曲やチャイコフスキーにラヴェルなどには評価が高いのはその側面からオケを論ずる手間を曲の真価と兼ねられるゆえの安易理由とも邪推される次第。
 過去の著名な出版にて幅を利かせていた悪意アル評論の「その手口」ともいえる切り口は?曲本来の先入観からその書かれた音符の即物的な状態を、検証しないで無造作にオケの豊穣さを非難する論調が殆どであり嘆かわしい先人の汚点。僭越ながらオーマンディーの譜面から鳴り響くスタイル的側面の趣旨を即座に判断推理して、相応しい状態にする形態操作掌握の素晴らしさと、それをフェルメノンできるオケに意図を読み解くことのほうが好事として識者行う評論とも思われる所存にて候。
  確かに多くの本場ものとは違う様相になるが、ゆりかもめさんの言う感慨が正解とも考え
「バストが大きくキリッとウエストが締まって、ヒップが大きめな思いっきり豊満な金髮ミセスに抱かれ包まれる歓び。」

かの如しオーマンディー豊穣な音に抱かれる事の意義として、我々は音楽の事象を主義を踏まえたうえで、それを超えたスタイルの次元での掌握による次元での「造形変性や操作への側面」での評価の触感的な体系化を望むことにあると思う次第にて御座候。

まさに多様化した価値と積層著しい記録は斯様にして有効に生かされなければという感もあり「感じる事へ」の意義が評論のポストモダンの先也や?

そんなオーマンディーの側面はまずは。
イベールの「ディベルティメント」と「寄港地」によって堪能されるもの。
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多くはフランスの印象を重視される事多き楽曲なれど、「ディベルティメント」におけるそのソロの映えるラヴェル的な管弦楽法の巧みさは、この演奏により真価を発揮するといっても過言ではないが、フランスのしゃれと言うより喜劇戯曲の純粋なはしゃぎぶりにこの曲の重点があることをむしろ感じさせるとこころがあり、「寄港地」においては若干イベールの持つラヴェルのそれとは違う東洋というよりよりアフリカに近い、民族音楽への土俗書法的接近はかなり犠牲になっているのは確かにて候。民族的語法は如何様にしても後に言及するファリャなども含めオーマンディの演奏では小さな了見として寛容にならざるべしものなのは確か。
カップリングのルーセルのバッカスとアリアドネ第二組曲は、ルーセルの硬質の響きが丁度バルトークの語法に接近しており、それ交響させることの何かを知りえてる当団とオーマンディーの独占状態でもありミュンシュの名演奏に肉薄する次第。しかも残念なのはカットもミュンシュのそれを踏襲しており、おそらくミュンシュ客演時の伝授の可能性もあるが決して当団に相応しいかと言うと?欠落された箇所でのトランペットの技巧の箇所など考慮すると非常に残念な次第でもあり。


つぎにファリャの「スペインの庭の夜」はアントルモン*を迎えたの成果ありで、むせかえる官能にピアノの心地よき夜風の対比が聞き所であり、ファリャとしては希薄なテクスチュアの聞こえの楽曲にこれほど、聞かせ所が感じるのも珍しいというより、これこそがオーマンディー発掘した聞かれるべき音の真価なのかと感銘受けた次第にて、中間部の安定してトリルに歌われる、木管の巧みな歌は非常にわかりやすいスペインであり、イスラムのアフリカ的側面は少々薄いが雰囲気に誤魔化すことのないオケの技量の直球勝負にて候。
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*自己修正報告カサドシュから修正いたしまします、どうもミトプーNYPのカサドシュを混同しておりましした。*2008/05/27

そして「三角帽子」組曲はとめる者はいないのかと言うぐらい、曲想を超えた音の宴が爆発する、もはや「粉や踊り」から「終幕の踊り」に向かって多少ゆっくりなテンポだがそれを忘れさせるファリャの書かれたスコアのダイナミックさをフォークロアという枷を外して暴走させると言うような状態。

正調の」アンセルメの演奏と比べると?まるで民族隆起でもおきたのかとも思うような「三角帽子」しかしながらファリャは斯様な可能性あるスコアを書いたのも事実と言うことであり。

これらは?主義は歴史により忘れ去れるが造形は歴史に沿うよう受容さる容姿に変容して残るという理の存在を感じる演奏を記録した音盤、ゆえオーマンディの真価と問題知るには最適也
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by dr-enkaizan | 2005-01-25 04:22 | 解説のない音盤紹介

武満 徹「未来への遺産」

驚愕の至りにて候、このところ体調麗しくなくそれゆえに夜には、斯様な事態に際しての処方セル音楽をか就寝に付次第であるが・・そしてブログにネタにしようと思う矢先に、FMよりその音楽が流れる次第。現代の音楽の西村氏が本日取り上げたのが武満徹のTVサントラ「未来への遺産」にて候。
さて1974年に放送のNHK50周年記念廃墟や遺跡そして遺物を淡々と静的視野と斬新なあるコンセプトを入れた文明遺跡ドキュメンタリーファンタジーの音楽。


遺跡に直接題材をおきながら表出される場面は新たな視覚世界が子心に、空間とかを認識させた番組であり、ある種のトラウマ的な潜在意識に流れ続けた音楽ゆえに97年にCDにて発売されしときは四の五の言わず買った音盤にて候。
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音楽は遺跡のテーマごとに収録されおり。
メインタイトル
密度を求めて(コナラク寺院)
聖なるかたち(縄文土器)
心のなかの宇宙(シュメール)
太陽神話(マヤ)
失われた時への旅(サントリーニ島の幻影)
天は語らず,大地をして語らしむ(ウル)
天は語らず,廃墟をして語らしむ(バビロンの獅子)
ファラオの宝庫(ペトラ)
メソポタミアの砂漠(ウルク)
巡礼の道(レオンの大聖堂)
この沈黙の遺跡(トゥルム)
悠久の流れ(美しいナイルの日没)
迷宮と呪文(ケルト)
王のモスク(イスファハン)
曼荼羅(根本中堂)
陶磁の道(日本・中国)
テーマ

 けっして直接的な文明や風土は反映しないが何れもその言葉を持たない遺跡が物語を映像空間にして音楽をもって心象に浮かび上がらせるもの。

それは時に歌になり、雑音になり、宇宙的な神秘の広がりをみせるとおもえば、突然途切れたり。何処へ消え去る。

フルオーケストラ岩城氏指揮NHK交響楽団とオンドマルトノによるのタイトル
そして三石氏指揮のムジカノァのオンドマルトノなどの電子楽器を含んだ室内オーケストラ
でありDGのサントラ国内発売は評価されるべき似て候。

しばし発売後は民放を含む各種TVの歴史ドキュメンタリーに借用されており、聞けば。。。あの音楽がということもある。

また失われた時への旅(サントリーニ島の幻影)の、突然途切れてしまう可憐なオーボエのメロディは人気がありドキュメンタリへの借用のほか、近年の人気のアニメ「ガンダムSEED」のある音楽(佐橋俊彦氏)に一つの主題として付随伴奏音楽としてよく似た形で使われてしまっているがこれもなかなか効果的で安易に流用した姿勢はともかくその目の付け所は評価に値する仕事やも(笑)。興味あるかたはなにかしらでご確認。
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by dr-enkaizan | 2005-01-23 19:07 | 解説のない音盤紹介

エルネスト・ショーソン生誕150年 クロニクル 管弦楽曲(1)交響詩「ヴィヴィアン」

こちらも1/20の生誕150年+1日よりエルネスト・ショーソンの作品を幾つかあつかう所存にて候。

最初は
余り話題にならないが?
純粋に作品扱いでは僅か2曲の「交響詩」のみの管弦楽曲は、斯様な数に反して・・・ぶっちゃけ(笑)それを聞いてからでもショーソンの「作風に人となり」および演奏について帰結し論じてからでも遅くは無いものにてござ候。

 あまりに「交響曲」「ポエム」のみ語られることはこの人物の作風の変遷と興味推移を捕らえることへの言説には説得力を欠ける次第でもあり、今後有名曲でエルネスト・ショーソンに波長ある方々は是非拝聴すること推奨せるものにて候。

最初の交響詩「ヴィヴィアン」Op51882に初演されるもの。
印象派絵画で有名な画家オーギュスト・ルノワールの仲介で知り合った、将来の婦人となるジャンヌ・エギュスデに献呈されている。

二人は翌年結婚新婚旅行はてつわんこさんのブログにある様にバイロイトへ、ショーソンとしては二度目の詣であり演目も二度目の「パルシファル」というグランドクラスぶりな次第で、ショーソンは数少ない人生の転機をパルシファルで迎えたことになり、当時のハイソの必携がワーグナーというキーワードにより動いていたこと物語る。

 この作品の概要は「円卓の騎士」の一エピソードに基づく粗筋をショーソンはスコアの余白に斯様な概要で記載している。

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プロセリアンドの森のヴィヴィアン(*甲)と魔法使いメルラン(*乙)の愛の場面


注:
(*甲)ヴィヴィアン=(*甲)ヴィヴィアーヌ
[Vivian] マーリンの愛人で魔術師。ランスロットの乳母。
(*乙)メルラン=マーリン
[Merlin] 魔術師。アーサー王伝説の円卓の騎士のひとり。 マーリン

 曲はワーグナー風の夢幻的楽想で、弱音器付き弦楽に導入された9度の属和音やハーフディミッシュな和声の律を持つホルンの弧を描くような旋律が。全体を支配する愛の褥にいる二人の情景を想起する。

 そして長々としっとりとヴァイオリンとチェロの対話をする半音階的でもあり跳躍する音程で盛り上がる後期ロマン派な旋律が歌わる、絵画的にして叙情豊かな想起豊かな描写は「ショーソンの特徴がすでにはっきりとうかがえる」(ジョルダン盤の笠羽映子女史感じ)、現在におけるファッションに近い余りに感覚的には単純衝動で語られるフランス音楽ブームの隔絶された偽りの評価は遺憾に感ずる次第でもあり。

さて続けてショーソンはライトモチーフを踏襲して、物語を進める。この愛の音楽果てに遠くからくるトランペットのメルランに助けを求めるアチュルス王(アーサー王)使者の」呼びかけ入る。

喇叭の叫び声、アチュルス王の使者達が魔法使いを森の中で呼びかけ探しまわる


その旋法的な特徴あるモティーフは幾分北欧風でもあり、懇願にみちた悲哀を含むものである

、それが出現する回を負う毎に音楽は使命感に満ちた盛り上がりと濃厚な官能が拮抗してゆく。
メルランは己が君主への使命を思い起こし、このヴィヴィアンの腕から逃れ、馳せ参じ様とせん。

 音楽はさらに闘争的な苦悩ある音楽に転化・・・それは魔法使いが己が君主への使命を思い出すことにより、褥の愛が終焉することを恐れたヴィヴィアンが引き止める故

魔法の場面、メルランを引き止め様とせんがため、彼より習いし魔法を使いヴィヴィアンは彼を眠りに就かせる、


ここで愛の歌が幾分の寂しい雰囲気で勝利するそしてホルンの跳躍フレーズに答えることがあることはもう無い、喇叭の呼びかけが重なり。

ある意味・・・?将来の婦人に「君に負けた」という心情の裏返しを当時のオサレで表現したということではとも思え此処での音楽の二人は「ショーソン夫婦」という訳か?

そしてさんざしの花(+)で彼を包む
 
のくだりと思える音楽は序奏の音楽の再現の後幾分ケルティクな子守唄風モティーフ(*)がオーボエそしてフルートで現れ非常に!!装飾感と象徴性が混合している耽美極まる素晴らしさであり、ショーソンの音楽の独創的なワーグネリズム消化が見られ、その装飾要素での耽美的な近代書法の使用にはドビュッシーの選ばれた乙女の先駆的なあるいはシンクロニシティーな類似を感ずるもの。
(+)Crataegus cuneata,Crataegus oxyacantha
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(バラ科落葉樹の低木)色:白(前者)赤紫・桃色(後者)五月ごろ咲く花は一重なら五弁、八重咲きもあり、枝に棘がある、その実は中国の漢方や菓子の材料としてポピュラーなもの、
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これとは別に茨(野薔薇)とも言われる説もあるが・・・・それは花と実が多少似ていて棘が在るゆえ。みれば違いは明確なれど、文章では樹皮に言及しないと区分は難しい。
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(*)三拍子的な韻律が歌めいておりもしかすると?古謡の引用か?聞いたことのある節なの詳細キボンヌ也 プラッソン盤では10:05 カルタンバック9:23 あたりジョルダン9:56

そしてメルランの眠りをハープの上向きアルペジオと高音の木管の和音で曲は閉じられる。

 音盤はショーソンの恩人と最近の人々から持ち上げられるフルネのデンオンには録音が無いのが遺憾、オールショーソンで音盤を企画出来ないメーカに責任はあるが、軽薄に曲勉強不足でコンサートで随所で祭り上げる俄かのフルネファンは交響曲を紹介すればショーソンが済むわけでないこと知るべしやも。


なお懸命な方々に伝えんとするが?フルネはショーソンもだがダンディーの「イシュタール」を日本で取り上げたことに「神」を感じる次第。

アルミン・ジョルダン指揮パーゼル交響楽団

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廉価で再発されており入手しやすい、自然なメリハリがあり上品で見通しのよい録音で素直に聞ける演奏

プラッソン指揮 トゥールーズ市管弦楽団
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ジョルダンと甲乙つけ難いがフレーズの明晰ではこちらに分があり、なお次回に取り上げるアルベニスとドビュッシーを垣間見える「祭りの夕べ」が聞けるメリットあり
カルタンバック指揮ナンシー交響楽団
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聞くのに集中力を要するが?そのオケの癖が嵌るととんでもない「萌え」になる破壊力あり。
オケ世界による一部声優オタのあいだで受けている世評の「能登かわいいよ能登」現象と同等なのか?(笑)

さて祭りの夕べに交響曲と進みませうか?

乞うご期待・・・・(なのか?)


戯言

ヴィヴィアンと聞いて
リーならあなたは歳ですね。

スーなら青いね

今なら
玉置勉強の「東京赤頭巾」の
アーティファクトの殺し屋美少女のヴィヴィアンちゃんでしょう

(わかるかな・・・?)


 
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by dr-enkaizan | 2005-01-21 03:49 | 解説のない音盤紹介

キャプテンウルトラ

サンタパパさん氏のサイトにて話題を発見
やはりあのヘミオラの「守りぬけ・守りぬけ。守りぬけ・3・2・1・0」の後の噴射音は「アレ」ではと思う所存。

さて宇宙音楽の元祖冨田勲氏になる音楽かなり野心的であり。
番組冒頭アバンナレーションはプロコフィエフの「石の花」がモデルと思われる音楽だったりバップジャズにさ作曲家リーバマンばりのオケとビッグバンドの競演と油断できないおもしろさ。


かの主題歌もあの音と(笑)相反して主題歌史上まれな美しさのあの間奏の弦楽と金管クレッシェンドがあるゆえに名作。
さらにタイツ姿で奮闘の若き小林捻待の演ずる江戸前宇宙人の「キケロ星人」活躍に使われたミュージカルテイストな「ハックとジョー」第二クールの「宇宙マーチ」の底抜け
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の明るさと、盛りだくさん。

ちなみにシンセ時代の「惑星」の時のロケット噴射はマイクに吹き付ける風をエコーにして位相加工したもの・・・。
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by dr-enkaizan | 2005-01-18 00:24 | 劇伴奏

ヴィクトリア・デ・ロス・アンへレス死去

さてオーマンディー祭り状態にてそろそろショーソンへ復帰のおりにかのような事が起きております。
ご冥福をお祈りします
ビクトリア・デ・ロス・アンヘレスさんお亡くなりになられました
さて円海山@熊蔵的にはドビュッシーの道楽息子のアリアのはいったのも(*)いいが・・・。
(CD廉価ではこのようにあられもない状態で発売)
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歴史的偉業の録音
Bachianas Brasileras.1, 2, 5, 9: Los Angeles, Villa-lobos / French National.o
ヴィラ=ロボス (1887-1959)
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の五番のアリアの可憐な歌声偲びたい次第。

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追記(*)山尾先生のブログではミュシャのジャケからめて言及、懐かしい 思えば・・去年のスゼーといいクリュイタンスのドビュッシーのペレアスの面子、天国のほうが音楽が楽し時代になり候。
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by dr-enkaizan | 2005-01-17 22:03 | クラシック

姫様・・・今年はラヴェルが濃厚(笑)か?

毎年恒例

おそらく一発表会で国内唯一に近い「コア」な曲目を取り上げるとされるAnjaさんのピアノ四手曲目。

今年はラヴェルの四重奏の編曲が濃厚の模様。

ドビュッシー「春」やダフニス第一組曲で歌っても。。。もらいたい(爆笑)気も致す所存。

個人的趣味ですが
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by dr-enkaizan | 2005-01-17 19:07 | 六国峠@盟友探訪

没後20周年オーマンディー記念-外伝「考えるな、感じるんだ!!」(1)レスピーギ-

 さてここでは提灯な絶賛しまくりのオーマンディー指揮するフィラデルフィア管弦楽団だが、弱点としてはそのオケの技術性に相反して、芸術的評価で評論者から真っ当な評価が得られていない点にてご座候。これは一部の作曲者からも侮蔑的な「スルー」な関係を強いられたことも然り。

 それは、暫し当団の創意および技術鍛錬の成果である豊穣の音彩がこそ作品を「ペンキ塗りの状態」にしたと非難される旨であり、暫し伝統的演奏ならびに作品の誕生した諸国の「お国物」の演奏などを引き合いに、あるいはその的確な技術で安定した表情に、「いいががり」的といえる精神性などの不明確な情緒で評価を帰結して、多くの演奏が非難されることおおくそれを真に受けた購買層と販売層により当団の功績多き記録が埋没され憂いイル事多き今にいたっている次第。

 たしかに「作品と芸風」の適合や、一部演奏上効果においての器楽の変更に、大編成志向、それら等においては現在の表現常識の水準ならびに、あいまいな定義ながらも「有り難味」ある種の「芸術的啓発に欠く瞬間」も存在するも事実なれど。しかし、その豊穣の響きこそは作曲者の書いた譜面の即物的な響きを追求した結果もあり、それは時に作曲者も思いもよらない、スコアの果てにある自発的な偏在する音自体による「音楽の揚力」はたまた「エネルギー」を此処に提示せんとするものである可能性に至ること否めなく、見逃せない当団とオーマンディーの演奏の本質と所見さるるも似て候。

 ここでは作品のその響きの果てが聞ける音盤と、さらに芸風と適合に問題はあるが、背景を考えなければその音に素晴らしい感触を感じ入る音盤を一部始終取り上げる次第にて候。

 考えるな、感じるんだ。Don’t think. Feel!(燃えよドラゴン、ブルース・リー)

 さて燃えよオーマンディな音盤をいくつか連載

 不遇のオーマンディーながらもちろん定番されるものありて、その点ではやはり内容と質共に例外的に評価が高い最初にレスピーギの演奏でのオーマンディーの仕込みは鉄壁であり、代表作「ローマの松・泉・祭」の「ローマ三部作」は、もはや作曲者の管弦楽とオケの適性は、余裕で上回るような拡張的変更もあるぐらいの演奏をここで提示する。
CBS時代にローマ三部作を初期に1968年ローマの松と噴水を録音してRCAに1973再度三部作を録音現在に至るまで定番になる経緯をもつもの。

 ここで紹介するほどまでなく当たり前の必携盤にてござ候。もうベストでは何度も発売されている次第。
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 中世グレゴリア旋法と近代和声による色彩書法の楽曲が大編成管弦楽上の近代管弦楽法にて巧みに表出されたこの楽曲は、誠にこの楽団の威力を示すもの也。

しかしこれに陰に隠れた録音にある同じレスピーギの作品集はさらにそれが楽曲の著名に頼らないでも十分な力量を示すことを証明する。

それは「教会のステンドグラス」とクープラン(修正パスクィーニやラモー、ガロ)のグラヴサン小品などの古典以前の音楽を下敷きにした組曲「鳥」の音盤にて候

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教会のステンドグラスは旧作ピアノ曲集を一部変更して管弦楽編曲し、さらにオリジナルのフィナーレと聖書と黙示録などのを題材にしたテーマを与えて再構成さるるもので、三部作のレスピーギらしい豊穣な傾向の作品、しかし「ローマ三部」作とくらべると聞きなれない特異な器楽法の瞬間もあり、他と比べるとしょうしょう「ダゥナー」要素と、にエスノ的もしくは中近東的要素とグレゴリア的要素が強い作品で通常の楽団では禁欲的な響きに留まる楽曲でもありなん。
 これをオーマンディーは豊穣な管弦楽をもって、壮絶な絵巻物としてローマ三部作と褪色ない管弦楽として提示する次第。

第二曲の「聖ミカエル」の黙示録の題材の悪魔軍との戦いでの「嵐のような上下する弦楽」と「逞しいグレゴリア調の金管のメロディ」の巧みなバランスから、舞台裏トラペットの光に最後の大見得と銅鑼の一撃まで見事な「話の絵が浮かぶ音楽」として聴けてしまう次第。
 ちなみに同作品を再評価させたジャンドスのジェフリーサイモンの仕事でもあくまでも音響的なスペクタルにしか聞こえない作品がこのように音楽としての効果で聞こえる録音があったのには後から聞いた世代には大いにオーマンディ恐るべしの思い「ひとしお」でありなん。

 サイモンに対してオーマンディーの演奏にはレスピーギの音楽に潜む、パート間での旋律的色彩和声音程の要素への意識が端々に見えており、詳細は語りたいが煩雑ゆえに短くいうと、レスピーギの楽曲書法での折衷的な使用が目立つ「和声的音程関係の使い」において。その旋律の補強色彩での使用(オルガヌムや並列進行)と伴奏的や躍動への機能性(累積和音の解決や協和音程への配置)という使用の複合性に対し、均等な器楽の音色をもった前提での「単純な図式」で見切っている根幹の掌握にこそ、この演奏の分があると思える次第にて候。この辺が対位法と機能和声を不明瞭な管弦楽で見切りにくいブルックナーの表現においては主旋律の突起した演奏として違和感を持たれた要因になる次第だが。これはCBSのブルッナーの五番においては、例外的に、モノフォニックナ転調くりかす主題提示振りにその色彩の見切りが生かされ、内向的器楽欠点を補足する演奏方針でなされて、いい持ち味になっていること此処に報告セリ。
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(但し語弊なきように注意しべきは通常のいわれるブルックナーという範疇を考えない点での限り)
カップリングのメインの「鳥」はもはやレスピーギかクープラン(修正パスクィーニやラモー、ガロ)かはどうでもいい、幸せな音の瞬間によってつむがれる「鳥」達の様にに堪能セル以外の術は無し。

もはや感じる入を語ることこそこの音楽の本質は・・・・やも知れぬ次第。
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by dr-enkaizan | 2005-01-15 23:01 | 解説のない音盤紹介

オーマンディー没後20周年(真)ショスタコーヴィチ交響曲他

 オーマンディーの戦後の代表的功績にショスタコーヴィチ交響曲の西側もしくはアメリカ初演という事例も存在セル事も、大いに留意しべしにて候。

 第四交響曲を1963年西側初演を皮切りに、70年代になってからは13番から15番まではすべてアメリカもしくは西側初演を行い、それ以外の第一および第五そして第十もレパートリーとして輝かしいものであるのは周知の通り。

 前衛的書法が隆盛になる音楽作品傾向から地理的隔離の如し幾分伝統的に聞こえる共産圏「ソビエト」の音楽は新しい響きとある程度の教養ある大衆層の認知と人気を得やすくあり、政治的対立と対照的にアメリカでその作品の初演合戦のような状態でむさぼる様に紹介されていた風潮なのは、当時のアメリカのレーベルの録音をみるとわかるところがある次第。
 
 それは戦中の連合軍プロパガンダ的意味合いで、西側初演のドラマが生み出された「レニングラード」(第七交響曲)トスカニーニのころから、好奇扱いが商業につながった事が、そのまま継続されたとも邪推もできるが・・・・・政治信条の制限が相対する商業のニーズを満たしてしまった皮肉をも感じる次第にても候。

 ちなみに他のオーマンディーの録音にもそうした風潮が反映しているのがあり。同じ共産圏楽曲中国の「黄河」協奏曲の録音などの明らかに、商業的事情での「完璧な仕事」も存在し、それらの中では交響曲一番CBS盤CD内でのカップリングでのコストラネッツの小品録音なども含めて、ショスタコーヴィチの録音は斯様な商業ニーズと芸術内容を満たす格好のレパートリーであったのはとも愚考される次第でもありなん。

 ちなみにRCAにはそんな風潮での二番と三番の交響曲の西側初演と初録音をしたモートン・グールドのステレオ録音も存在するが・・まだCD化していない様子(かなりの名演奏なのがだが・・・)。

またロストロポービッチとの協奏曲録音あたりは政治的な意味合いで不遇になってしまった巨匠への労わりが本質ながら、他方で美談に持っていかれた嫌いもあるが、これはオーマンディの協奏曲の伴奏の卓越した適性と意欲をもあらわすものであるゆえ、必携の音盤であるのも確か也。

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 話を戻し交響曲でのオーマンディの演奏の現状においては、すでに「クラッシク招き猫」のスレッドでストロング小林少年氏言及のCBSに録音された第四交響曲と第十交響曲のフィラデルフィアのマス表現威力を遺憾なく発揮しての演奏を頂点にすると、
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Dmitri Shostakovich: Symphonies Nos. 4 & 10

その陰に隠れているが、そのフィラデルフィアソロが映えるCBS時代に録音された交響曲第1番そしてRCAでの交響曲第15番にも分があることも当方言及してみたい次第にて候。

 当作曲家の最初と最後を飾る交響曲二つは、時期は離れているが、時間軸の遷移を除き音響書法的に極めて近い道具立て成り立つ造形を持つ次第である。

 それは、オケの多彩な器楽を重層させるのではなく、その音色に立脚したかのような、単一器楽パート郡にソロ、少数の器楽の重奏による、混在とは隔離した器楽出現の交代による推移が僅かに登場するテュッティーとの対比であり、斯様な点においてはバルトークの管弦楽ののための協奏曲と似通ってはいるが、さらに古典的フォルムで虚無的不条理でスタティク透明な音楽は此処には存在する点であり、さらに音楽の興奮の持続が断続する点において類似の感触をもつ。

 斯様な表現においては、ソロの力あるフィラデルフィアの力量を示す適性を十分示すのはいうまでもなき事であり、当団がその断続的な音楽の瞬間で巧みな器楽合奏にて彩り、心地よい音楽へ変貌させている次第。

 大概はそれらをマスとしての表現の主眼とおき、パートにおよるオケの分散は、マーラーの幅の大きい分裂的あるいは表意的なニュアンスで造形は剥離させる表現で、進めるものなのだが。(実際マルティノンの名演奏あたりにはそれが大変自然になされている)
 
 しかしこのフィラデルフィアの第一交響曲では・・・・典例あげるに、第一楽章に下降するトランペットにファゴットの断片的挙動の運動の組み合わせからすでに、ソロの力あるがゆえに音楽として始まり次第にいくつかのソナタ形式の枠組みで、行進曲にまとまりティンパニーの行進フレーズにて集合が消散するあたりまでも此処のパートが存在を主張する程で、均等にならされる書法の推移が曲の真価なのかは判断保留なれど余りに魅力的なものへと変貌を遂げている。

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Shostakovich: Symphony No. 1; Ballet Suites 1 & 2


 実際この交響曲を西側で最初に評価初演したといわれるブルーノ・ワルター周辺のマーラーの後進たちの評価した観点は分裂的な信条表現ではなく、ゲシュタルトの概念での造形遷移の拡張ではなかったと今一度思い直しても遅くはないとも思う次第にもなる。

 それだけこの交響曲は野心的でもあり。それをきっかけに西側の禁断の書法を吸い取りいったん頂点として第四交響曲へ行く萌芽もあり、第四にも実際には分割された管弦楽にその名残があるがそれは別の機会に。

そして15番にもそれらと共通の美点を当団が余さず提示する。
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ショスタコーヴィチ:交響曲第15番&バルトーク:4つの管弦楽曲
 ちなみに二曲を連続して聞くと、15番の第一楽章の、滑稽な行進に語呂合わせで自虐的な自出の発露なウィリアムテルのコラージュに、12音ドテカフォニー第二主題そしていったん粛清時代に途絶した書法的追求の継続がはじめまわりだし、まるで昔親に取り上げられた玩具を取り上げられた子供が大人になってそれが入った箱を偶然大掃除か何かで見つけで、中身を感慨深く思わず中身を引っ張りだして眺めたり遊んでしまうといったしょぼくれ感があり、次第に遡って様々影響を及ぼした音と音楽が出現し終楽章にいたる時点での最後は第四のに楽章の小道具にもなった、打楽器のカタカタの「音」へ退行回帰するような筋立てを感似て候。

 代々木さんの記事にこの点とよく似た言及があるので一読推奨セリ
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by dr-enkaizan | 2005-01-14 03:12 | 解説のない音盤紹介