ブログトップ

六国峠@ドクター円海山の音楽診療室-無用な営みの、えも言われぬ、この上なき喜び

drenkaizan.exblog.jp

カテゴリ:現代音楽( 14 )

ホセ・トーレスの死

承前
当該人物は、プエルトリコ出身のボクサー、多少不遇の名誉なれど、栄冠をたたえつつ追悼。
 
 さて何故取り上げるのかは。映画監督勅使河原氏のニューヨーク訪問時のドキュメンタリー映画の題材になり、その音楽は武満徹氏により着けられ、おそらく多くの蔵人がこの名前には、同名の映画サントラから取られた、三つの映画音楽の抜粋を思い浮かべる次第にて候。
a0007939_13212555.jpg

The Film Music Of Toru Takemitsu
 おそらくアダムスの指揮した音盤が、初期の著名なところだが、当該の映画から、トレーニングと休息の音楽を組み合わせた一曲がある次第にて候。

 最初の不協和音の推進から、ラテンのタンゴ調のリズムにのせ、ブルーノートの旋律が、このプエルトリコ出身の氏の、印象を屈折を暗示しているかのようでありタイトルの文字通り訓練をそれらを内包して表現している、しかも武満氏としては稀少なリトミックな楽曲にあたる。そして訓練の跡の休息は13の和音と半音的な武満氏のおなじみの気だるい音彩であり、ある種の安らぎを与える。

Takemitsu: A Flock Descends into the Pentagonal Garden

Naxos


あと音盤はナクソスにもオールソッフの演奏であり、NML登録の方はこれを拝聴できる。

他に幾つかあるが各位探索の程
a0007939_13373965.jpg
Music of Takemitsu
円海山所有は上記三種




 

早速興味を持ったようですww
[PR]
by dr-enkaizan | 2009-01-24 13:21 | 現代音楽

今回は深井をねたに

さて今回はアバンタイトルだけコンテを写植したような形で・・公開
深井史郎の音盤がナクソスから発売されもうすぐ1年、そして我々がお世話になった音盤山岡のヴィクター録音も二度目の限定CD復刻もなされ、話題の渦中になるが、いまだ愛好家の好意的評価という歪な形で日本近代音楽が評論されてる次第であり、嬉しい反面今一情報量に思考が追いつかないような、はたまた根無し草のような論説があるような気がしており、これでは深井の揶揄したある方面に蒙昧な現象が形を変えて繰り返されたに過ぎないのでは思いこれを構想する次第にて候。
 上記康代嬢の語る問題点において、音楽技術者の気骨ある聞き込みを再度促したい次第。

見てみる
[PR]
by dr-enkaizan | 2008-05-18 21:28 | 現代音楽

受容者たる者の証-三大バレー以外のストラヴィンスキー1982(1)

 今年の夏は「CBSのストラヴィンスキー自作自演」集成22枚組みが、嘗ての歴代の購入者を失望させるほど「壮絶な廉価」で発売されたことが、一つの情報の産業が定着した時代を象徴もしている。もはや雑誌や嘗てのベンダー側のオブニマス企画という限られた機会でしか出会えない体験が、そのまま全容は個人の自由で出来るように、全て購入出来る次第にて候。
 これは当全集をある廉価企画での抜粋で知り、LP期に限られた分発売を買いあさり、CD期に清水の舞台例えのような価格にもめげずに、決起し購入したものにとっては、今の世代は恵まれていると思うことしきり。
 
 それらを受けてか一部の向きでは斜め聴きする方々や、一枚ずつ聴破マラソンを敢行する方々などもいて、各々様々姿勢にてその情報に挑戦する気概大いに感心にいたる次第でもありなん。

円海山的にそれらの方々に歩調を合わせてすこしストラヴィンスキーについて、ネタを供出してみようと思う次第にて候。

 多くの者達がストラヴィンスキーの音楽全般に挑もうとする時、宿命として立ちはだかるのは三大バレーの独創性と親しみやすさとの、ギャップであり、多くはその受容の難解を、作曲者の作風の変遷が発想の枯渇と捕らえ責任転嫁するかのように、作品の芸術価値を低く見なしもし、聞き手の蒙昧であることを否定したがる顚末に陥る。

 ゆえに歴代のストラヴィンスキーの音盤やコンサートレパートリーもそれらを反映しており、常に啓蒙者が三大バレー以外のストラヴィンスキーを建前上に聞くことを推奨しているのに関わらず、聴衆はその言説があまりに学術的区分で見なされすぎていることに、作品そのもの才気を味わう以前嫌気がさし、一向に三大バレー以外の作品に光が長らく当らなかった時期があったのも確かであり、子の全集も三大バレーでの一部の作品の演奏が、前提条件ゆえの結果であった可能性も忘れられただ単に、下手と誤解され、それらにより、へたな代表曲の演奏枯渇した作品の全集として事実無根の誤解がなされ、長らく日本のマーケティングの外に追いやられていたの時期も存在している。

 こうした気風は1980年代までつづき、おりしもマーラーブルックナーという、コンサート趣向あるいは音響趣向ににて多くの世紀末記号にも事欠かない音楽の再評価に隠れさえもした。そうしたなかかすかな光明に生誕100年に集成された31枚組みLP全集および、アニバーサリーにあわせた雑誌の面での特集であった。

 円海山的にはレコード芸術の1982年の11月号が端的にそれを象徴していると感じる次第であり、当時のマーラーブルックナーのブームを反映して、その号は第一特集にブルックナーそして第二ストラヴィンスキーと後者がやや少ないが同規模扱いの特集になっており、そして第一世代発売が始まったCDが第三特集に組まれている、破格の編集構成である。

 そしてここおいて、三人の評論家(石田一志・船山隆・諸井誠)諸氏の三大バレー以外のストラヴィンスキー名曲当りが始めて点前を超えての評論者として接するストラヴィンスキー作品群への本音が聞け、その受容の鍵にもなった。

 今回は石田氏のを紹介引用すると・・・・・。
弦楽四重奏曲のための「三つの小品」・「兵士の物語」・「プルティネルラ」・「管楽器の為の8重奏曲」・「オラトリオ エディプス王」・「三楽章の交響曲」・「エボニーコンチェルト」「ミサ曲」「オペラ道楽者のなりゆき」・「ピアノと管弦楽のためにムーヴメント」である。

ここでの石田氏のコメントから解ることは、氏は聴衆や読者の芸術文化における機能に注目した「受容美学」のヤヌスの言葉の
「文学や芸術は、、作品を受け容れ、享受し、判断を下す人々の経験を媒介として、初めて具体的歴史過程になるという考え方がある」
 という旨の引用に始まり、作曲者という創作側にもその「受容姿勢」が力量に関わることを言及しており、過去の作曲者書簡などもたとえ、歴史にあわせ作風を変貌させたストラヴィンスキーもそれらの、優れた受容属性故であると、指摘肯定して、その民謡からバロック、古典派にラグタイムなどのジャズそして12音音列主義までの
「良き受容者」
としての証にてのストラヴィンスキー像を聞く観点でチョイスしている次第にて候。

そして30年代の作品をそうした受容の社交性の「ポーズが」過ぎていると控えめに一喝して。、自らの選定から漏れていることを明示して分を終えている次第である。

実は偶然の一致か諸井氏のチョイスも1930年代が抜けており、次回は氏のチョイスを引用してネタを続けようと思う次第にて候(つづく)
[PR]
by dr-enkaizan | 2007-08-26 23:59 | 現代音楽

グレツキを出されるとキラールを出したくなるかも・・・・・

レスピーギの合間に・・・・。
最近立て続けにグレツキの名前を聞かされる次第にて候。
最初はNHK FMでの現代の音楽での西村氏のポーランドの簡素主義の現代音楽潮流の講釈でそして、盟友ゆりかもめさんのトピックである。

 そして、前者の西村氏の番組ではキラールまで取り上げられおられ、いつぞやの武満氏の未来への遺産とおなじく、またしても先を越されてしまう次第にて・・・多少しょぼくれる次第でありなん。

当作曲家は、ポーランドの現代意音楽の面々で現役ではおそらく、歳が高齢な作曲家であり、同世代的にはグレツキと活躍がシンクロする、そして映画音楽も数多く手がけておりために彼の名前をググるとおなじみの映画の名前が多数出てくる次第でもある。

作風は簡素な反復と大まかなミニマム的音響の対比などはグレツキと類似的ながら、大きく性格を違えるのは、旋律的根底の要素とリズムにおける民族音楽的属性の高さと、細分された音の動きの多様、タブミュージック的なミニマル要素の不規則な切り取りや変移を多用しており、かなりの刺激的な様相を我々に提示することにて候。

そんなキラールを代表する一曲といえば、FMでも西村氏が取り上げていた
オラヴァであるのは誰もが異存はなきことと所見さるる。

曲は15人の弦楽による音楽であり。
 山岳地方のヨーロピアントラッドな短調のフレーズの反復と同フレーズの突然スイッチを切り変えたかのような不自然な移調の交代そして、レコードの針が飛んだかのような、あるいはCDのトラッキングエラーによる音飛びのような不規則な部分でのミニマムな部位での繰り返しになり、さらにフレーズが転旋したコーラスの裏目メロのようになり、そしてハーモナイズされ不規則なミニマムな繰り返しを再び始め、大きく律動的盛り上りが一段落すると、今度は低音弦のスタカートのリトミックなオスティナード伴奏に、ソロで下降する特徴的メロディーが歌われ、二度目にはメロディーは総奏に移行してオスティナートは細分化されて音塊的な推進的要素驀進して、次第に舞曲の節と合いの手、各種細分的動きの激しい律動ある飽和したかのような音塊が混在となり、狂おしいまでの盛り上がりの渦中と清楚なリトミックの間を交差して行き、さらに半音階的な動きが伴奏に現れ、 冒頭のフレーズと不規則に交代しながら頂点て、基本フレーズが引き伸ばされた浪々と歌われい楽員のかけ声で終る。

かなり個性的な当曲は人気もあり音盤も数ある模様であり。
円海山的には90年代の中ごろ録音で推奨。
Wojciech Kilar: Requiem Father Kolbe
a0007939_0412515.jpg

おそらくナクソスライヴラリーにも・・・・いろいろあるのでは・・ご拝聴ください
[PR]
by dr-enkaizan | 2007-03-09 00:36 | 現代音楽

ボブ・モーグ博士追悼-1-

ITmediaニュース:「シンセサイザーの父」ボブ・モーグ博士が死去

楽器としてのシンセサイザーの創始者であるロバート・A・モーグ博士が8月21日、脳腫瘍で死去した。71歳。

 氏の功績はシンセサイザーの開発と括られるが、その制御方法の発想が画期的であり、電子知識を音楽の符合する点で展開させた点にある。

 通常は音階は基本周波数から二倍の周波数のオクターヴを12分割させる、非直線形な対数的関係になるゆえに、それを電子制御で再現使用となると、対数的な数値の抵抗を用意しなければならないゆえ、物理的に安定させることが困難であったが。

 モーグシンセサイザーにおいては、電圧制御の段に対数的増幅器を設け、1オクターヴ=1Vの関係を作り、それにより一定の数値の抵抗列でその乗数を制御させることで、器楽的な安定した音程とキーボードおよび可変抵抗媒体を応用したリボンコントローラにベンドホイールなどの、各種タブラチュアライスしたものへの応用を容易なものへとした次第であり、各種モジュール制御などへの応用にも使用され、それはMIDIの登場まで長らく一部を除くシンセの統一規格となっていた。

 まさにピタゴラス~平均律へいたる流れにによる周波数と音階の音楽定義を電子制御系において再現したことこそ、前駆的発案はあるものの、徹底したモーグ博士の天才的な閃きがある次第。

a0007939_2341548.jpg

 この制御に基いて、多様な波形を発生させる発振機(VCO)に、それらの複数の混合や平衡変調そして白色雑音・下限・上限域での共振を伴うフィルター(VCF)音の抑揚をつける(VCA)さらに一音あたりのそれらの時間的な抑揚・減衰・持続・余韻(ADSR)の変化をつけるエンベロープジェネレーター(EG)、ヴィヴラート低い歪みをつける、低周波数発信機(LFO)が音楽的な理由をもって存在しえて。シンセサイザーの器楽としての完成度を確立したのはゆるぎない事実とも思われる。

 いずれにせよ、今日デジタル及び違う音源形式に成り代わってこそだが、機械的障害を克服したモーグシンセでの定め確立した音楽への器楽的な制御のパラメーターの定義は、受け継がれ、パソコンからゲーム遊戯機に携帯にいたる電子音楽氾濫する今日に至っている。

そんなモーグを知らしめた音楽は後ほど。
[PR]
by dr-enkaizan | 2005-08-25 02:10 | 現代音楽

クセナキス:メタスタシス(弁証法的変換)と音楽から生まれた「荘厳なHP壁面」フィリップス館

丹下氏の追悼を音楽の花束でとも思いつつ。
一曲  クセナキス:メタスタシスを。


a0007939_22315078.jpg


a0007939_22326100.jpg

当曲は東京での丹下氏の仕事と浅からん関係を持つことは必至。

氏の埋蔵がなされると話が持ち上がる、「大聖堂」

 屋根と壁面がシームレスで空間が立ち消える壁面のコンクリートHP曲面を、建築で最初に実現した人物 こそ ル・コルビジェ の元で働いていた頃のヤニグ・クセナキスその人でもありなん。
その建物とは1958ブルッセルの万博の催事用に用意されたフィリップス館
a0007939_22165513.jpg


 なお当時『ポエム・エレクトロニック』というコンセプトのもとに相応しい空間作りにクセナキスの協力を要請したのは文化・背景な卓越した感受性をもと合わせていた、プロジェクトの主幹名義を司るル・コルビジェに他ならない。
このときクセナキスは中の音楽を電子音で埋めるべく先駆者エドガー・ヴァーレースに依頼して自らも前奏曲「コンクレートPH」を作成する。
コンピレーションCD"an anthology of noise & electronics music-first a-chronology 1921-2001"に両曲

ロバート・クラフトのヴァーレーズ曲集にヴァーレーズの「エレクトリック・ポエム」
シャイーのヴァーレーズ全集にもヴァーレーズの「エレクトリック・ポエム」
収録

それゆえ建築業界ではコルビジェ名義の著書の多数ある次第。

 しかしながらル・コルビュジエが描いた、ごく簡単なスケッチを元に
a0007939_221715100.jpg


(*)聴衆とコンテンツ内包し入り口と出口のある胃袋
クセナキスが構想を練る、

まず用途目的に相応しい天上と壁面の区分の曖昧な壁面構成を定める。
a0007939_22163271.jpg


それにより映像と音響が効果的にさらに非日常性を盛り上げられる果てしなく終わる面画期待され

a0007939_22212315.jpg

その面を受ける軸組み
その複雑な軸組みの推移を
a0007939_2223564.jpg
という線的構造力線を画策
a0007939_22245951.jpg


施工的線形性解析もフォローしてネゴ
a0007939_2228849.jpg

双曲放物面とコノイドでつなぐと言うクセナキスによる構造的考察により実現

建物の内部壁面には四百個のスピーカー群を設置
a0007939_2227748.jpg


以上『音楽と建築』高橋悠治訳より

そして音響と映像と色彩とがこの空間のなかで渦をまきながら観衆たちを包みこんでしまった

a0007939_22292232.jpg

 その極めてユニークな幾何学的建造物での曲面の構成の根源の双曲放物面とコノイド(=円錐)を成しうる、複数の力線のグリースの連なりは、先立つこと1953年初演のクセナキスの音楽処女作「メタスタシス」での弦楽でのパートの動きとして先駆的着想があった。
 メシアンの助言を得ながら作曲を始めるもその12音セリー音楽における限界を感じ、新たな数値的統制を画策する際に幾つかの異なる傾斜する線形の連なりを配することで、と統制された表面積や体積の造形が生じる、図形的概念を想起
a0007939_22484488.jpg


それを、システマティクにオーケストラの弦の集団での個別的運動をするグリッサンドの使用に置き換えた「絶えず生気する音空間」を生み出すことに成功する。さらにこの曲のギミックにはコルビジェともう一つの仕事ラ・トゥーレッド修道院のモヂュロールが反映しており、その中間部での細切れの瞬間が配置される部分での音程・音価。ダイナミックスが黄金分割を用いて組み合わせれているが。これはコルビジェの著書「モデュロール」2で一章裂かれて解説している。

なおコルビジェとは経緯ありクセナキスは少々仲たがいをしており詳細は六国峠の盟友のコメディア
に詳しい記述があるゆえご拝読。
ちなみに当方此処での家主とのメイル対談で登場している、だかなぜか当曲をテレクトレールと勘違いして書いている恥ずかしい・・・・・・(-_-)””””””

クセナキスはフィリップス館での曲面の効用を
フィリップス館の内部にいる時、ひとはその幾何学を意識することなく、その曲率に影響される。
との述べる。

 そして丹下氏これを体育館(代々木)さらに教会の採光や音響での起用に至る・・・・これは最高の派生的応用の素晴らしさと我所存するもの也。

最後はクセナキスの音楽と建築の最後の言葉で
「容積の習性の抽象法則の厳密さは「直接」感じ取ることができる。論理の「フィルター」は快感の補助にすぎない。」
a0007939_2318819.jpg

[PR]
by dr-enkaizan | 2005-03-24 23:07 | 現代音楽

悩んだ・・悩んださ・・ヤブロンスキーの伊福部

さてブログに年末の宴会と多忙と言う大敵が存在すること痛く理解した次第で、活動再開。

 その間に悩んだトピックにナクソスの伊福部の録音の評価があったことここにカミングする次第にて候。

 此処での音盤の期待と売りは、伊福部の芸術の根源のひとつの、チェレプニンの祖国の「ロシア」のオーケストラによる演奏による、根源的な音楽エネルギーの爆発と郷愁になると思われのだが・・・・。

 むしろこの音盤、演奏するに当たっての超えなければならない、伊福部音楽の音楽情操の深さを、むいろ反面教師的的観点で立証するに至ってしまった顛末を感じることを禁じえない次第。

 利点としてはロシアならではのオケの自体の響きとリズム感で、往来の日本の演奏と違う様相は、伊福部音楽の表出する情操が非常に普遍的なものである点に新たなる感動と発見を見出せた次第であったことは確かでありなん。その端々に見られる歌や表出する雰囲気は別格であるのは確か。

 しかし、それらを打ち消してしまうほどの問題の一つがあり、それは余りに指揮者とオケが譜面に対しての機能を荒すぎる理解で演奏に望んでいることは見過ごすことの出来ない演奏の欠陥として認識すべきことも確かな次第でもある。

 恐らく?録音時間の制約に起因するオケの練習不足は余りに致命的なものではなかろうか?たとえばタプカーラの序奏の後の7拍子の主部のアレグロの盛り上がりで発生する、推進の根源たる「半音階の上向きのオスティナート」(*1)などがそのパートの音量が少なく。その存在が失われており、明らかに録音セッション-指揮者-管弦楽の順で責任要因を追求できそうな内容である。

 次に打楽器の合いの手の表情の戸惑いがあり、特に第一楽章の主部に終止部の中間旋律のリトミックな伴奏上の再現での合いの手の控え具合は、民族的な感性の違いなのはじゅじゅう承知ながらも・・・余りに律動を台無しにしているのは確かであり、結果メ東洋的ロディーによる対位法的な組み合わせと節の異様な音楽として単に提示されたのも否めない次第でござ候。

 これはリトミカオスティナータでの16分音符を維持できない演奏にも共通の問題である。
一部で囁かれる「初見」に近いセッションと言うのはあながち嘘ではないかもと疑う次第。

 それを踏まえたうえで音盤としては最初に言及した利き所はわずかに認められ、また多くのタプカーラの演奏での、多くがそのライヴという異様な高揚感で演奏されている状態から離れ、覚醒した観点での伊福部音楽と言うものの本質を示している貴重さは、伊福部音楽の表現の難しさを感じ、氏の音楽はかなりローカリティーの素材から新たなるコスモポリタンな手法として目論みに作りこまれている理解のバランスはロシア音楽より前衛音楽的なアプローチ必携なことは確かなようでもあり申そう。

 出来うるなら初回の沼尻氏か多くの湯浅氏の演奏で望みたいところでもあり、非常に評価する点で悩まされた音盤であるのは確かな次第でござ候。
[PR]
by dr-enkaizan | 2004-12-26 21:55 | 現代音楽

影絵「せむしの子馬」にも共通する付随音楽の原則

 サンタパパ氏の紹介する著書、大変丁寧に紹介がなされ敬服する限りにて候、特に伊福部氏の映画伴奏音楽の原則が、実践されてその最高峰たるものが、おそらく舞台音楽のアニメーション『わんぱく王子の大蛇退治』の音楽であろうと考えられるのはたしかである、件のオリジナル(ユーメックス)を聞いても、最近収録された抜粋(キング)その汎用性と表題性の巧みな使い分けそして音響効果的センスに至るまで、今日の基礎を作り上げた野は確かな次第。

 特筆すべしjは氏提唱する

「映画が表す感情を音楽でエキサイトさせること(反語的用法も含む)。」

「カットバックなどが挟まってもひとつのシークエンスとして見せることができること。」
二点は音楽からもその片鱗をうかがうことができるものにて候。

 氏の音楽でしばし同じフレーズ、類似の音列のオスティナートとしてを、様々な様相で提示することにより、偏在セルことにより・・・・・その場面の推進を誘発する音楽を効率よく供出することは、ある意味では伊福部節とも捉えられることもおおいが。むしろサティーあたりがバレー音楽「本日休演」の幕間の映画のために作成した、類似フレーズの反復構成からなる音楽「幕間」のユニットの構成原理の血筋を受け継ぐような、画期的な映画の音楽手法とも捕らえたほうがよさそうな次第である。

 それらは単一限られたフレースのユニットの組み合わせととその器楽を旋律的もしくは動機的展開手法より、短い時間的推移とダイナミック属性の変性によりいくつかのヴェリエーションが作成される音楽の表情の階調を場面に当てはめるというようなプロセスと観察される。

 映像に合わせる音楽としては当たり前のことながら、その合理的さにおいては他に類を見られないほど徹底しているのである・・そのフレーズから表題の飛躍は躊躇するすぐらいに多様な汎用性しめす。


 それは時に「せむしの子馬」(*)ロシアの田舎の王様の鄙びた行進曲が、ゴジラ対デトロイアでのゴジラの最後を看取る、冷凍超兵器を搭載したスーパーXの音楽になり。


 宇宙人との起動を駆使しての死闘の音楽が、おどけた民族舞曲の人々の踊りの列になったりもするし、ラドンと空中戦を繰り広げるF86の音楽が、謎の虹男の恐怖を暴く場面の追跡劇にもなり。

 そして時に無音に場面の効果音に勝る音量で現る計算された場面のデュナミーク巧みな使い分けがなされ、そうした要素の共通を持つ上で、さらなる律動的要素への対極に、12番ドデカフォニや朗々とした歌が用意され単調な要素と情緒性の欠如を防いで、前述における提唱を実践し、この伊福部劇伴奏音楽を形成しているのはとも考察さるる。

 それは伊福部音楽として不遇な特撮音楽を井上誠氏他の熱意から、作曲者自ら演奏会用音楽に組んだ「SF交響ファンタジー1-3」においても、今度は連続する組曲として全体のバランスを考えて、曲のテンポおよび器楽を多少変更しているあたりも、その提唱となんらかの関連が折ると考えられ、決して音楽作品としての価値を疎かせず、音楽の推進性を考慮しての配慮がなされ、これよりエリクチュールが豊穣な国内に海外の作曲家映画音楽もあるが、この単純な素材が巧妙に組み合わされることで只の映画音楽のコンサート演奏に留まらない聴き応えを示すのはその辺にあるのやもしれない。


伝説は仕組まれたともいえそう・・(なんちて)

a0007939_3243813.jpg


発出時キング スターチャイルドJK32X7034



(*)参考資料:藤城清治影絵劇「せむしの子馬」への音楽(VAP VPCD-81191)
a0007939_322624.jpg


伊福部氏の音楽としては、キリスト教題材もあり少々西洋的な要素多く、ロシア的な情緒とリズム競演は暫しストラヴィンスキーの器楽伴奏の歌曲や兵士の物語そして狐を髣髴とさせる
[PR]
by dr-enkaizan | 2004-11-25 03:25 | 現代音楽

1988マカロニ 伊福部

 伊福部氏の特撮付随音楽の評判は、米国の他にイタリアでの愛好されたも凄まじくある一例を示した一例がこの「伊福部昭作品集 イタリアンライヴ」(SLCS-5004)であり申そう。
a0007939_2144134.jpg


1988年3/15にイタリアのプラトーでのコンサート、しかし演奏団体は無料コンサートで、有志に近いアマチュア団体と演奏者に、多少のプロの寄せ集めであり、譜面も金銭面の関係から東宝のパブリッシュなスコアは得られず、すべて耳コピーの独自のアレンジによる映画音楽の再現とさまざまなアレンジからなるものにて候。
a0007939_2150816.jpg


 面白いのはゲストのアーティストにエンリオ・モリコーネのマカロニウエスタンの音楽でスキャットの朗唱者のエッダ女史が参入しており、「モスラ対ゴジラ」や「キングコング対ゴジラ」の演奏で歌を聞かせる。
a0007939_21554113.jpg

 吹奏楽に若干弦楽が加わった、簡易オーケストラの音色は少々怪しく、ゴジラのテーマは演奏上の制約か?譜面読みの間違いかオクターヴ高いところもあったり、少々失笑を誘うところもあるが、場の盛り上がりは尋常ではなく、イタリアの愛好されかたもたいしたものであるのは確認できる次第にて候。

 ライナーノートによると会場はホリゾントスクリーンに東宝特撮のポスターが投影されたり。
a0007939_222085.jpg

前衛絵画の芸術家の音楽に合わせたパフォーマンスもあり。
a0007939_2224799.jpg


充実しているが、やはり伊福部というより世評は「日本の特撮」のあつかいなのが、投影されたポスターに伊福部氏の弟子の音楽担当して「妖星ゴラス」などが一緒くたにされているの点で判る。

 そんな点を棚に上げてもこの事例は作曲家を喜ばせ、このコンサートへ国際電話で日本語とイタリア語でメッセージを寄せておりそえも、当音盤に収録されている。

 確かに聞き所はかなりあり、大編成の合唱による、コングコング対ゴジラの合唱の再現などはステレオで聞けることはすばらしく、長らく井上氏の「ゴジラ伝説」でのシンセ編曲の寂しい合唱で聞いてきたものにはすばらしいものでござ候。

 またピアノ編曲による帝都の惨状は、これひとつで独立した伊福部作品のピアノ小品にしてもいいような芸術性の高さも示し、初代ゴジラの音楽のすごさを伝える出来栄え。

 会場ノイズもすごいが場内吊マイクで捉えられた録音は音盤を作る前提ではなく、記念とししての、私家盤的要素が強く・・・このような音盤が国内使用で発売されたのは驚異の事実ながら、演奏家の音楽センスのすばらしさは、面白さを超えて際物との間を微妙に越えるもにであり、さらに深入りする方々は探訪を推奨セルものにて候。
[PR]
by dr-enkaizan | 2004-11-23 22:19 | 現代音楽

伊福部 昭-タプカーラとリトミカの元になった「協奏風交響曲」

 さてさらに伊福部祭りの様相は他に波及せる物にて、さらに「てつわんこ」「代々木」様のヤブロンスキーナクソス盤リリースによせてひとつ言及したいことがあり。

今回のラインナップは
日本作曲家選輯:伊福部昭
伊福部昭:シンフォニア・タプカーラ
ヤブロンスキー(ドミトリ) / アイビィー
ISBN : B00069BP9A

ドミトリ・ヤブロンスキー(指揮)ロシア・フィルハーモニー管弦楽団

シンフォニア・タプカーラ(1954、1979改訂)/ピアノとオーケストラのためのリトミカ・オスティナータ/SF交響ファンタジー第1番




 だがSF交響ファンタジーを含めて興味深い関連のある音盤として、キングがファイヤーバードレーベルよりリリースしている「伊福部昭の芸術5」を、もし深入りしたい人がいたら強く推薦せる物也。
楽 協奏風交響曲&協奏風狂詩曲~伊福部昭の芸術5
日本フィルハーモニー交響楽団 舘野泉 伊福部昭 大友直人 徳永二男 広上淳一 / キングレコード
ISBN : B00005F6IO


a0007939_3255054.jpg


曲目はピアノと管弦楽のための協奏風交響曲とヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲(旧題 協奏曲第一番)であり、ともに先の音盤に由来しているものが多数存在する。

 最初の協奏風交響曲(1941)は戦時中に作曲初演され、長らくその譜面は、戦災にて消失されたとされ、また作曲家自身も世評も芳しくなかった「やりぎなモダニズム」不満に思うところがあり、改定も構成はなされずに、その反省と兄の追悼の「交響譚詩」(1943)への簡素で合理的な傑作への筆を向かわせている。(作曲家自身もスコアが焼失してホットしているような発言もある)その作品の出来具合は両者の編成と構成を拝聴願えれば一目瞭然にてござ候。

当時のコンセプトはライナーにある伊福部氏自身の弁を借りれば以下のとおりで

「血液の審美と現代のダイナミズムの結合がこの作品の主体である。」

とはじめ・・ここでの血とは「汎アジア的」な書法に、近代管弦楽のダイナミズムを融合して作品を作り出さんとする意思を宣言せるもの。

 実に三楽章のこの曲は、端々に都節な陰旋法に田舎節の陽旋法、に由来している五音音階や六音音階の音組織からなるエリクチュールを変拍子やポリリズムなどの新興的なを取り混ぜ、それらをピアノのクラスター奏法や。異質な響きで存在を誇示する前衛的で大胆なな管弦楽法にて彩を添えている野心に満ちていることは確か。

 当時の高揚する世相に絆された作曲家が前の代表的作品の「日本狂詩曲」や「土俗的三連画」にて未開拓の書法的追求を目論んだ思いがひしひしと伝わるものでもあるが、その素材の吟味は余丁なるものおおく、散漫な印象も免れないところもあり、世評が答えない理由もその辺に感ずるもの也や。事実伊福部氏自身のこの曲の主に第一楽章の素材から、第一主題にて、その主題展開の書法の再構成(その調性的な秩序立てには極めて近いと感じたのがヤニグ・クセナキスの論文というインタービューでの発言もある)を踏まえて管弦楽とピアノための「リトミカ・オスティナータ」(1961)が生まれ、そしてそれに先んじること1954年のシフォニア・タプカーラの第一楽章のアレグロ部の7拍子の主題は第二主題から採られている。

 実際これらの曲の動機がこの協奏風交響曲から現れる時は、二曲を聞いている者には、衝撃と興奮を持って迎え入れられるものといっても過言はなく。

 管弦楽の響きは日本狂詩曲での管弦楽が「打楽器と対峙」(*)する感のある「大編成」より。一層の熟練を感じる、「融合的」なものとなっており、その後の交響譚詩への萌芽もあるもの似て候

(*)「だがっき」と「おと」の庵から『伊福部昭・音楽家の誕生』

ともかく、深入りをしたい方はナクソスで気になったら、交響譚詩とこれを推奨セルこと必至。

 なお協奏風狂詩曲は第一楽章に「ゴジラ」と「怪獣総進撃」の一節がある流れで一緒なことを気づかせるものにて候、じつは後者は「万博のパビリオンの催し物の音楽」にも流用されておりユーメックスより「わんぱく王子・・」CD音盤の余白の収録され一度発売されている。



なおともにオケは日本フィルハーモニー
協奏風は指揮に大友直人氏ピアノは館野泉氏
狂詩曲は指揮は広上淳一郎氏ヴァイオリンは徳永二男氏
(KICC179)


なお円海山的にはリトミカは 若杉弘氏指揮の読売交響楽団/ピアノ 小林 仁氏の硬質でやや聞きづらいが、なにやら構造的な道理を感ずる演奏が、近年癖になっている次第を付言せり。

a0007939_3291928.jpg


ビクターVCD-5505(廃盤)「おい犬!!早く復刻しやがれですゥ」a0007939_492464.gif



追記作曲者の伊福部昭氏が2006年2月9日お亡くなりになられました謹んでお悔やみ申し上げます。
[PR]
by dr-enkaizan | 2004-11-22 03:31 | 現代音楽