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六国峠@ドクター円海山の音楽診療室-無用な営みの、えも言われぬ、この上なき喜び

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カテゴリ:解説のない音盤紹介( 111 )

ジェームス・レヴァイン ストラヴィンスキー/春の祭典

ストラヴィンスキー/春の祭典 ジェームス・レヴァイン/メトロポリタン歌劇場管弦楽団

当曲の演奏でこれほど、スコアに書かれた音を無駄にすることなく、なおかつ即物的にしかし抑制とは無縁に引き出した、
いや?というより放り出した演奏はめったにない次第にて候。
 それは、春の祭典の理想を求めるカルトな響きへの妄執が実願したかのような、趣であり、本来はある程度抑えるべきすべてが白日に晒されすぎて、受け取る側が飽和する感覚を引き起こし、
あまりに乱雑・未整理*にも誤解されかねない状況を呈し、演奏の充実にも反して、世評は軽んじられている次第。

 *確かにテイクは少ない録音で、あいまに演奏者の雑音なども入ることから一発取りの長いテイクが想像され、録音場所のアコスティークも悪いところで、音盤の作られ方も含め乱雑な部類には入る。ジャケッドデザインも風忍調のサイケトランスアート調でありこれも一因か?

 しかし、との巧みな音色はそれらの批判では見逃しており、多くの理想的一例がいくらでも指摘できることがある、たとえばトラック20の冒頭から「敵対する村との戯れ」の最初のティンパニと弦楽のずれた刻みにと、フレーズが交差する箇所での、ティンパニに合わせられたテューバのバランスは絶妙であり、メーター旧録音やストラヴィンスキーの自作自演ステレオなどのテューバやその逆のデービスやブレーズなど、両者の存在のいずれかにクローズアップされる演奏に付きまとう不自然はなく、ティンパニーの音に被せられた必然的音色音量の意義すら感じさせる次第である。

 今回鎌倉スイス先生の春の祭典トピックのコメント途上で推奨せずはいられなくなり、トピックする次第。
 昨今のレヴァインの注目の低さは・・氏のプライベートの様々な要因?や、一時アカデミーな話題の中心たる、主要オケから外れて、しかもレコーディングから遠ざかった要因もある。さらに確かにフランス近代辺りの音楽では、かなり厚ぼったい印象も否めないところであり、表情を深くとってはいないがグラママラスな音が鳴っているあたりであり、さらにロマン派以後はその裏付けは昨今の学術系の歴史的裏づけという、怪しげなトレンド的擬似音楽史的実証想定のような刺激的な付加価値もない、旧世代の意義の範疇にとどまるとさえとも、認識されてしまっている現状であるのも事実で・・・・・情報媒体の発展の結果、今の聴衆が感傷的要素、上記刺激要素にどっぷりかぶれ、常に安定している豊穣な音を求めていない傾向で、個人的な嗜好で安易に聞きところらしき印象を操作流布するなか、なかなか平均的に鳴らすレヴァインの玄人的な傾向に刺激を見出せないあたりもある。特に日本ではその傾向が強く陰鬱に、もしくは異形に突出した特長がありがたがられるのとは袂を分かつ傾向にある。故に氏の演奏の斯様さが・・・・・
 深みや憂いや影という日本人的感性の極北であるのは確か。しかし、昨今の未達成水準の演奏を、印象操作交じりを?マイナーであることを新味覚と誤解する向きにはこの演奏を再度深く聴いて、何たるカを思い出してもらいたいこと事趣味がスノップする向きに警鐘しておきたい次第にて候。
 奔放を嫌うを良とするのが蔵人の好事の証としている勘違いしている輩が多いが・・・さにあらずや?
 ストラヴィンスキーの鐘楼発言を捩って語るとしての、レヴァインの春の祭典の意義は?スコアのメティエこそ突かれるべき鐘楼の鐘であることを、もう一度思う起こしてほしい主張に他ならない。感じるのは自由だが、つき方が悪い鐘楼の音は遠くまで聞こえないことも事実にてござ候。

 このことはこれの前に1977のペトルーシュカですでに萌芽があったがそれはいずれの機会に。
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ジェームス・レヴァイン ストラヴィンスキー/春の祭典


1992年録音で輸入版がそして来日記念として同演目を含む
1993年にリリースされた音盤、しかも同曲の国内演目はさらにラヴェルのボレロを演奏した記録され、このオケの底力は
フィラデルフィアやシカゴの豪腕を頂点にされるアメリカオケだが、裏方にてもデフォルトこれぐらいはやってのけることを知らしめるものにて候。
1993年6月3日:サントリーホール
ムソルグスキー/展覧会の絵
ストラヴィンスキー/春の祭典
ラヴェル/ボレロ
あなおそろしや、実演見聞した人はコメントキボンヌ

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by dr-enkaizan | 2009-02-08 02:15 | 解説のない音盤紹介

牧神を巡り巡って プレヴィンの牧神の午後への前奏曲

承前
鎌倉スイス先生の恒例の季節物の合間に、直の扱いでの、ヂュカスのドビュッシー追悼曲に始まり、牧神の午後へと話が展開する、なかプレヴィンのロンドン交響楽団の演奏へ言及が進み、あまりに円海山的フェバリッツの琴線に触れたところで、新年早々嬉しい限りな次第にて候。


 実にプレヴィンにとっての三度ある牧神の二度目にあたるであろうこの音盤は、EMIの最初のデジタル録音であると同時に、メジャーレーベル史上最初のデジタル録音による牧神の午後であるはずである。
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 LP期初出のころには、その録音の様子をレポートしたライナー、付属されており、医療用のデジタル機器転用の録音ついての困難と、その画期的な成果に、ものめずらしさ、コンソールに詰めはいった楽団員たちが、そのスピーカから流れる管楽器の第一声の生々しさに感嘆した様子などが伝えられている次第で、プレヴィンもこれが一秒に数万回サンプリングしているなんて信じられるかい?と軽い冗談問答すらしている。

その初出のジャケッド初回CD化でも継承されており、スペイン調のアーチがある庭園が、南欧の日差しあふれる、印象派絵画で、イベリアのある映像や夏の草むらの牧神を何かと遠くから暗示する雰囲気あるものでありなん。
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 さて当該演奏は、フランス的というより、あくまでも国籍はない、純粋な音楽表現の模範を示すものであり、ロンドン交響楽団の適度な厚みのある音彩、適度な抑揚に合わせたディレイヴィブラート、ノーマルで深いホルンの音色など、フランスローカリティーとは極北の位置にありならも、見事なフランス近代音楽の書法的効果を的確に捕らえている次第。
 己も含めて、わが国のエスプリだニュアンスだと、お定まりの単語で、お国物の演奏家をありがたがる、この演奏は、それ以外でも成立しうる、視点の定まった路線の存在を痛感させられるものにて候。
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by dr-enkaizan | 2009-01-07 23:48 | 解説のない音盤紹介

アニバーサリーの残り香 151年目のエルガー:スターライト・エキスプレス、他

 去年の150アニバーサリの残り香
当楽曲は以前ジャンドスのNMLネタにて言及澄みながら、対訳込みでデッカがエルガー作品をマッケラスなど中心に大盤振る舞いをしていることを言及しそびれた次第。

 そのなかで、三浦氏晩年の仕事?と考えられる当曲の音盤は国内盤の買う価値は高くあると断言せぜる得ない。

 近年のマニアの解説より改めて三浦氏の仕事は簡素ながら、落ち着いている次第。
それに準拠して当曲の概要は、エルガー58歳時に書かれた劇作品の付随音楽で、当作品はそれからの幾つかの管弦楽伴奏の歌曲の集成となり、その素材には別作品の「子供の魔法の杖」も素材を取り入れいるが、それは三浦氏のライナーを実際にごらんになることを推奨する次第にて候。
 なお当然カップリングには「子供の魔法の杖」の二つの組曲、さらに、小管弦楽のための「夢の子供たち」とエルガーの童心にスポットを当てている様相を呈している。

 その曲の概要は、原作を妖精文学というか一部で怪奇文学では著名なアルジャーノン・ブラックウッドの「妖精郷の囚われ人」(*)を基にし、別人が演劇に仕立てた「スターライト・エクスプレス」への音楽の依頼であり、その長大な演劇から九曲の歌曲を抜粋したものでありなん。

*日本で一度訳本が出版され三浦氏の書く表記よりそれを優先させている次第

 三浦氏のライナーを頼りに劇の粗筋は。「極めて幻想的(ママ)」で、ユラ山脈に移住した、生活に困窮しているギャムデン一家と、おなじ境遇のプールセル村があり、見かねた子供が、星屑を特殊な洞窟に集めた配る「星明りの協会」をつくり、各家に分配し、大人たちを救う、そしてイギリスからおじさんや妖精の協力の末、貧困の両者がクリスマスを越す事できるように救済する、妖精版人情物語なる様相。

登場人物の手回しオルガン弾き(Br)やその女房のラーファーそ長女のジェシー・アン(ともにsop)の持ち歌を歌い、歌詞は草花に風や昆虫の雲やそして星とこの国らしい自然主義に満ちていたり魔術についての話の妖精世界で牧歌的なオカルトに満ちている。

 音楽もエルガーらしい、ドイツ的な書法に立脚しながら、どことなく旋法的な旋律と和声も配合されたあたりに哀愁があり、標榜したRシュトラウス張りの色彩的管弦楽にて、最初の手回しオルガン弾きで歌われる「小さい鈴」の引用フレーズが、フィナーレで鐘を伴い感動的色彩をもって再現されるあたりは聞き物であり、また4曲目での夜風で妖精を目覚めさせる?アリアでは、ウィンドウーマシンが導入され効果的な面白を聞かせ、ラヴェルの子供と魔法の先駆すら感じ、非常にあきさせない。

さて後半にはオルガンも加わりキャロルソングの「最初のノエル」が出現するあたりは、妖精世界のケルトや北欧文化圏とキリスト教文化圏の折衷の軋轢もしくは陳腐さが感じなくもないが?今年のクリスマスに如何な一品にてござ候。
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エルガー:スターライト・エキスプレス、他
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by dr-enkaizan | 2008-10-14 00:38 | 解説のない音盤紹介

秋の夜長祭り・・・・・かかれる前に書いておこうアッテルヴェ(ル)リといえば・・・

承前
さてひそやかに楽しみにしている鎌倉スイス先生の季節物セレクション・・・今回はスエーデンの近代作曲家のアッテルヴェリ(アッテルベリ) ピアノ五重奏曲・・・実は円海山のトピックの予定あった曲であり、これとあわせてそれのもう一つの形態である交響曲第六番もあわせて聞くことを推奨セル物にて候。(尚当曲の経緯は承前を参考に)ナクソスのライヴラリーにあるゆえにアカウントあるものはこちらにて聞くべし。
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アッテルベリ:ピアノ五重奏曲/組曲第1番/ホルン・ソナタ

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アッテルベリ:交響曲第6番/ヴェルムランド狂詩曲/無言のバラード Op. 56(ノールショッピング響/広上淳一)
写真の車は交響曲六番でもらった賞金でかった車

その作曲家にて、いろいろ聴いてもらいたい音楽は多く、円海山的には、交響曲四番の民俗的旋律と儚い叙情のあるアンダンテが念頭にあるがこれは春向けであり、そして海辺の情景を刹那に描いた交響曲第三番は、台風シーズンで多少時期を逃した感もあり、今様の頃での、少々ひんやりとしていて出来れば月の光が少しでもあるような秋の夜には、ホルン協奏曲も相応しいのでは思う次第で御座候。

 ホルンのレシタシーヴォと管弦楽対話にピアノの硬質な和声の装飾がちりばめられ、魅力的に悩ましくも切ない旋律がうねりだす、第一楽章、そして弦楽のピティカートの上の律動の上に、嘗てないほどの朗々と歌われる、歌にピアノ華やかな音階的な律動が彩りを添える第二楽章、そしてスケルツアンドな舞曲で少々スリーステップなジャズを思わせ、哀愁にてユーモラスなフィナーレで、終わりは加速にて遂げられ、全体構成が序破急のラプソディックな仕掛けであったことを感じる。

ナクソスには三種類有るが往年の名盤であり円海山的にもリアル所蔵にも思い入れ深い。
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CAP21364 アッテルベリ:交響曲第3番(ストックホルム・フィル/エールリング)/ホルン協奏曲(リンデル/オスカンプ)
に涼しげな夜空ような音質の録音と緊張感の素敵な持続が一長秀でていると感ずるもの也。
是非拝聴推奨。
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by dr-enkaizan | 2007-10-31 01:20 | 解説のない音盤紹介

So I'll go down to some lonely waters モーランの心象風景

最初にある曲の詩を引用。
So I'll go down to some lonely waters
Go down where no-one shall me find
Where the pretty little birds do change their voices
And every moment blow blustering wild

訳意

 そして私は、人里離れた水辺へ行く
 そこは誰にも見られず、
 可愛いい小鳥たちが声を交わし、
 絶え間なく囀っている。


 なんと不可思議な語り始めにて、まるで孤独を楽しむのかそれとも、喧騒を逃れるのか、呆然とそこへたどり着くのか?なんともいえない心情をイギリスにある沼沢の湿地帯の情景に託すかのようであり、何処と無く切なくもあり病んでいるともいえそうな語り口にて候。
 それはイギリスの近代作曲家にて、RVWの作風を近代にリファインした作風で好事の方々には知られる(*1)、アーネスト・ジョン・モーラン(Ernest John Moeran 1894年12月31日生1950年12月1日死去(*2))の楽曲二つの小管弦楽の小品(1931)の一つ、lonely waters の声楽入りの版にてソプラノが、曲中全般に器楽に提示される切ない節に、沈着してたどりついた末にそれに、つけて歌う歌詞でありなん。

 曲はRVWの田園交響曲に近き音彩の弦楽の刺繍の上下を、オーボエやフルートの囀りのようなメロディーの断片という穏やかな情緒的な風景で始まり、時に歌われる長い節や、若干ポリコードやポリトナールになる弦楽の和音付けや木管動機などが、ハイライトのように配置され、そしてコルノアングレィーがlonely waters の一節を切なく提示して、弦楽が再び豊かな歌を朗々と歌い、、木管もそれ応じて推移してゆき、時にlonely watersの節をホルンが気まぐれに出現させるが、そのうちに組織的に絡みいり、その推移自体がlonely watersの節の対位法的技法の上に成り立っていたことを示唆し、その直後音楽は盛り上がり、その後は沈着しながら推移して、その末に、ソプラノが表われ、冒頭が回帰してフルートの涼しげなリフレーンの低音のピッチカートにて終止する。

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ジェフリーテイト指揮イギリス室内管弦楽団の演奏であり。

唯一の声楽入りのlonely waters (ロンリー・ウォーター)が収録されていると話題に一部で狭い評判と話題になったものでありなん。
現在は違うジャケッド国外では発売中なれど、1988年発売当時に音盤で流れていた不可思議な切ない懐かしい音楽の具合とジャケッド衝動買いしたものにて、買った後に三浦氏の愛聴の盤として紹介され非常に嬉しき魂消た思いでもあり。

尚、に国内でもカップリングそのままでジャケはシリーズデザインになり、一度発売されている。

 ほかにバックスやブリッジの管弦楽の小品があり、クライバーがシカゴで片割れを演奏した、拘りの一曲で一般には有名になった。バタワーズの二つのイギリス田園詩曲などもあり、これ一枚で清涼感と懐かしさを提供する快き一枚。

(*1)なぜか山尾氏の英国近代音楽入門にはないが?、きっと続とか改訂版にはでてくるでしょうね。
(*2)一部の向きに1951年という記述もあり死因も脳卒中や桟橋転落にての溺死という二説ある?なおモーラン自体戦役にて負った傷にて精神を煩う経歴もありそれは、アルコール依存症などと並行し彼の健康に影を投げかけている、ゆえに多様な要因も推理できるが、はたまた転落の原因が脳卒中であったのかは、音楽鑑賞となんら関係のない詮索ゆえにこの辺にて。

 ただ親愛な友人の作曲家ウォーロックの自殺の後、残されたモーランは自らの死を迎える所となるアイルランドのケリー州ケンメアで夫婦で殆ど暮らすなどの色々興味深い事例もあり、そのスタンフォードとアイアイランドに学び、自身の確立せんとした。一歩下がった近代的作風の先の、「何か」は独特であり色々感慨を持ちたくもなる。
 その辺のうかがい知るにては1937完成のRVWとシベリウスに三大バレーのストラヴィンスキーが入り乱れているような、軽妙なリズムとだれない切れ込みが魅力的な、交響曲を推奨、その作曲家憑かれた、アイルランドの祖先の興味に由来する音律の道具立てによる、陰鬱と沸き立つ躍動そして、衝動的なインパクトや表情の豊かな音楽は、そのフォーマルには既成があるような気もするが、その構成や垣間見られる用例の新鮮さは格別。
8.555837 モーラン:交響曲 ト短調/シンフォニエッタ
MOERAN: Symphony in G minor / Sinfonietta
ボーンマス交響楽団 - Bournemouth Symphony Orchestra
デイヴィッド・ロイド=ジョーンズ - David Lloyd-Jones (指揮)

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なおNMLでもロンリー・ウォーターは声楽無しも聴けるゆえ、これが本来の現行ゆえに拝聴推奨
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CHAN10168X MOERAN: Violin Concerto / Cello Concerto / Lonely Waters / Whythorne's Shadow
アルスター管弦楽団 - Ulster Orchestra
ヴァーノン・ハンドリー - Vernon Handley (指揮)他

なおソプラノはコルノアングレィにて歌われる。
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by dr-enkaizan | 2007-07-16 21:29 | 解説のない音盤紹介

ウォルトン:交響曲第1番/パルティータ(イングリッシュ・ノーザン・フィルハーモニア

ウォルトン:交響曲第1番/パルティータ(イングリッシュ・ノーザン・フィルハーモニア/ダニエル)
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さてNMLにて再発見した名演奏があり、何故これを無視していたのかと子一時間。

 幾分コンパクトにオンマイクに残響か集中した録音であるが、当演奏家の木管を弦楽の絶妙なバランスをもって、リズムのギミックを浮き彫りにしており、管弦楽の咆哮とオケのスペクタクルに、幾分甘さを抑えて感傷的に注目が行く本作品に別の光明を与える次第にて候。


 昨今の録音では以前取り上げた、ベルナルト・ハイティンクのテンポをインテンポそして緩やかに、しかし克明に音の事象を追いかける名盤が、記憶に新しいが、「悪意の交響曲」と囁かれる辛辣な表現と意識すると、自作自演にボールトの演奏にある、リズムのギミックが幾分犠牲になり、それらが幾分後退しており、第二楽章でのストラヴィンスキーの春の祭典の影響になる、同一拍子での不規則なアクセントによるスケルツオ、そして黒人音楽からとられたリズムか根底にある、第一楽章のシャッフルするリズムなどが飽くまでもオケの体裁を壊さない程度効果で表われているが、
 これらの全てがかなりエッジが鋭く捉えられているのが当ダニエルにの指揮による演奏でありなん。

 さらに曲の随所に現れるトレモロや打楽器そして幾分ダブりがちな、管弦楽を、演奏法(スルポンテイlチェロなど)アテギュレートをかなり明確に追従させて刈り込んだ表現のコントラスト生み出し、断片的に出現するフレーズの反復するパートの歌いこみにも余念を感じさせず、さらに全体構成の時間的配置される節の区切りをリタルダンドおよびアチェランドにて明確にし(*)、結果ドラマティクにて、かなり筋肉質でスポーティーなものへ変貌させている次第であり、これは自作やボールトの名演奏の概念の延長線上にての、本来忘れ去れていた、もう一つのこの曲の姿を再び見せてくれる次第でありなん。

NMLでなくともリアルに買うこと推奨。

(*)仔細は曲第一楽章8:11以後の木管のアティギュレートや、その後に弦楽のオスティナートやアルペジオ、と金管のクレッシェンド応酬から、リズムと歌が躍動して、クライマックスに至る10:57の手際の良さをご拝聴。12:11以後の、息の長いリフレーンに、今様に言えばシャッフルするブラックコンテンポラリーのようなシンコペイトのリズムを弦楽が応酬し、金管の加わる音の整理は鮮やかであり、これも最高の聞き所
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by dr-enkaizan | 2007-07-10 01:11 | 解説のない音盤紹介

なにも語ることなし・・ただこれを読み聞くべしか・・・デーリアス「海流」

以下を承前の事

ポーマノックの浜辺から

Sea Drift または海の彷徨

自然の摂理に叶った音楽


もう書くことが無いぐらいゆえに、ヒコックス指揮ロイヤルフィルの同曲の入った、おそらく世界一番に当曲を解説したかのようなジャケッドをここに

私たちは20世紀に生まれたの s_numabe様へ
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by dr-enkaizan | 2007-07-01 22:46 | 解説のない音盤紹介

須賀田礒太郎:交響的序曲/双龍交流の舞/「生命の律動」 神奈川フィル/小松一彦

待望のナクソスの日本音楽シリーズよいよ 円海山的にはご当地横浜しかも神奈川フィルで、須賀田礒太郎氏の登場なのは誠に興深い事と相成った次第である。
 
 大戦により生活文化事情が変わり、忘れ去られてしまった作曲家の一人であるが、その作品大変に機知に富み、フランス近代に後期ロマン派に表現主義、新古典主義そしてロシア音楽などの熟知していることが窺い知れ、当時の日本が西欧文化の認識において猛烈な収集の勢いをもってなされたことが解り、同時代を生きた作曲家よりも個性は希薄で書法や模倣的要素がつよいが、その日本土俗から西欧の書法に及びたる、的確な語法掌握や用例は、ある点では共通する時代感覚をもつ、伊福部氏や早川氏の「所在をつねにプロンプトする音楽」とも微妙に違う多彩をもち、それは今のネットでの情報社会の先例をみるような、幅広い興味と好奇心とそれを支える知性などをこの人物が持っていることを証明するものであり、その点では深井氏など共通の日本人の、西欧の文化の歴史的および地域的な相違を同列に扱えた環境にいたゆえの、折衷的気質美徳において気質を共にするものである。

 この作曲家は忘れ去れたが、その博識なる幅広い書法認識を渇望する態度は、繰り返すが現在のネットやメディアでの並列化された情報を捨て選びしながら進む創作や論説の潮流に通じるものにて候。

これはある意味横浜という町に育った人物の気質とも愚考さるる次第。
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8.570319 須賀田礒太郎:交響的序曲/双龍交流の舞/「生命の律動」(神奈川フィル/小松一彦)


さて曲は皇紀2600年のコンクール受賞作「交響的序曲」
のレスピーギとマリピエロとヒンデミッドの合間のような、ポリコードやSUS4の和声や変形されたリディア旋法のバリエーションのような音階による前奏曲やアレグロそしてフーガとコラールと西欧新古典主義を標榜しつつも、後期ロマン派の劇的展開を模索する意欲作品に始まり。
雅楽の原曲を西欧語法と編曲の枠を超えて融合せんとした、「双龍交流の舞」
という個性の萌芽たる作品と、晩年の地方にて演奏される可能性の低い中、自己の興味でのストラヴィンスキー「春の祭典」や「ペトルーシュカ」、そして「火の鳥」あたりの語法を吸収せんとしたかのような和声や書法の追従著しい「生命の律動」というバレー音楽作品、そしてまた初期作品のリムスキー・コルサコフの異国趣味を模索する「東洋の舞姫」という網羅的ないようである。
惜しむらくは、さらに「横浜」や関東・東北のような氏の得意としていた可能性のある
地域性を音楽に当て嵌める書法のコラージュが世評さるる作品が聞けないことだが、かえってこの作曲家の音楽の技量の卓越と問題を計り知る内容と相成っている点になったので、続編を期待もしつつ、絶妙な選曲を評価したい。

なお録音は近年のナクソス録音では珍しいデットな傾向にあり、アンセルメのデッカのでの録音を彷彿させるところがあるのが嬉しい次第であり、ある意味そちら方面の方にも所見を伺いたいほどの感慨を持つ次第にて候。
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by dr-enkaizan | 2007-07-01 03:07 | 解説のない音盤紹介

マルティノンの影武者?デュトワ バッカスとアリアドネ ルーセル組曲へ調

さて鎌倉スイス先生や、庭は夏の日ざかりさんのところでまとめてコメントしたルーセルの音盤でデュトワのバッカスとトアリアドネの録音について四方山を。

 デッカにアンセルメの録音したレパートリーを意識した、ロシア・フランス近代音楽録音をモントリオール交響楽団と次々と録音していた、ヂュトワだが、なぜか?エラートにオネゲルとルーセルのレパートリーは態々デッカにレコメンデンションをとって交響曲全集+管弦楽を録音したのは、大いに不可解な音盤録音史上の謎として印象付けられている次第にて候。

 それ以前もデュトワはエラートニはLP期にストラヴィンスキーの狐他の小編成の作品の録音があったが、現在は多少忘れられた観があり、いまだ未復刻らしいようである、それらの契約の延長上にこれらが位置していたのか、それともデッカ側で難色があったのか不明なれど、オネゲルとルーセルのマーケティングについてはそれなりに冒険であるのは窺い知れるような事情が想像される次第にて候。

そしてルーセルの管弦楽はバッカスとアリアーヌの第一組曲+第二組曲に組曲へ調の組み合わせでオケも交響曲全集のフランス国立とは違う、パリ管弦楽とのコンビでだされている次第である。
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しかし評論は多少の賛辞をしながらも、一般の知名度人気としてはルーセルは今一であり、世間から一時期廃盤として消え去る不遇となる。

 要因は?人々のデュトワの神経質な個性がパリ管弦楽団でどのようにという興味に反して、あまりに立派なオードックなオケの音色であったことがあり。
 後述の興味深いパートの強調なども滅多に聞けない部分がある拘りなど細部にあるのに関わらす、全般に堂々と鳴り響く熱いオケの音色に人々が興を失ったというなんとも今にしては贅沢な理由であると想像され、20年前にこの人物の、はた迷惑な固定概念イメージいかなものだったのかを推し量ることも出来る事例にて候。

 円海山で的に思うに、多くの者達が無防備にドビュッシー・ラヴェルをこのデュトワで推し進めるが、それは非常に愚かしいことであり、むしろデュトワの解釈はフランス近代音楽の伝統に立脚するのでばない、賛辞されるべき、その異質な軽さを武器に当該楽曲の再提示を示したところがあり、デッカの望んでいた路線上でのアンセルメを彷彿とさせる明晰な要点を押えた音楽作りでという要素があったにせよ、決してそれらの相違を踏まえないような、押し当てぶりはその蒙昧の度が知れる事態になりかねないと警告したいが、これはいずれの機会詳しく仔細例を挙げて・・・むしろ借りてきた猫のように、オケ自体パワーを信じて、パリ管弦楽団を振るデュトワのこの演奏こそが、この指揮者本質を知る上では重要であり、これも是非拝聴してもらいたい次第にて候。但し彼のドビュツシー・ラヴェルより曲の難易度は補償しかねる所にて候。

 そして時はたち廉価ブームの波に乗る形でワーナーに移籍したエラートは二名組のウルティマシリースとしてバッカスがよみがえるのは今の好事の方々の記憶にあたらしい。

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 しかしここで奇妙な事態が起こる、なんと当該に二枚組のブックレッドの表記を見る限り、ジャンマルティノンのLP時期未発表で、三枚のの撰集のCD化にも漏れたと思しき、組曲へ調の音源が表われる。
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なんとも見事な出来栄えで、その交響的表現は時に熱を帯びると、おもっていたが、某掲示板でそれはマルティノンの音源ではなく、上記デュトワの音源である指摘がなされるしだいで、そのブックレッドを注意深く見ると。

一枚のディスクで演奏家変わるごとに太字でつけられる演奏家とオケ表記なのだが、当該組曲はマルティノンが二回出現しており。

これを見る限りマルティノンであるかのようだが?
右下矢印部分をご覧になると 作品番号を当該とする録音年代が書かれており。
1986年以下略となっている・・・・
要するにマルティノンの死後10年後の年代ある。

そして肝心の音はウルティマのほうが多少高音域にクセがあり、違うように見えるが、表情付けは似通っており、仔細は言及は今回は省略するが、タイムの微妙な違い、これは前述国内発売時のデュトワの録音データーを見ると、
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同じ1986

おそらくデュトワの録音と結論がつけられる可能性が強い。

さてこの辺で詮索は終わりにして。

この音盤は非常に、パリ管絃楽団の機能を信頼したデュトワのワンランク上の、ささやかな拘りがあり、マルティノンを彷彿とさせるような豪快な表現に徹している組曲へ調を含め、全般に渡り丹念きくとスリリングなものである、筆頭はバッカスの終曲のバッカナールのワルツ部分の確保部分での背景のトランベットの華やかな、三連音による音階の上下が、見事に美しく演奏されており、これは多くの名演奏での聞こえることは稀なものであり、しかしルーセルの必然を感じるものであり、この辺の聞き所を見事に押えきるあたりにも、(16.:43)
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この指揮者スコアリーディングと言う点での信頼が、氏の一般に認知されるフランス近代音楽の華やかにとか爽やかと言う、在り来たり美辞麗句よりも、重要であるポイントであることを喚起しておきたい。

さてバッカスに絡む皆様には是非。
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by dr-enkaizan | 2007-06-28 00:32 | 解説のない音盤紹介

伊福部昭作曲、交響譚詩

 伊福部昭氏作曲 交響譚詩が、遠からん意味での示唆において、戦争の犠牲者由来の音楽であることは、その曲の2楽章の土俗の勢いを失い深い感情的側面へ向かう、構成が、おりしも南方進出(事実上は、物資拠点と航路確保のための他国武力による領地略取)に陰りが見え、戦意高揚がさらに望まれていた時勢との、その違和感に気づかない限り悟ることが出来ないことは、多くの好事の方々には周知の通りになるや。
 曲の馴れ初めは、戦時下の1943年の夏に書かれる、そのスコアには蛍光質(*1)により倒れなくなった、氏の兄君の勲氏を偲んでのものであり、それをヴィクター管弦楽コンクールにの送り、入賞し、国策により愛国的楽曲として、類似の経緯をもつ渡辺浦人の交響組曲「野人」(1941作 なお両曲の初演。録音はともに山田和男(後の一雄)によりなされている。)
等と共にいち早く録音もされディスクが出回り、著明な日本の管絃楽曲(*2)として知られるようになった次第にて候。

(*1)実際にソースが不確なるゆえに、多少正規のトピックで書くのはためらわれるが、日本の「蛍光質」の研究には多様な用途があり?

 一部で、知られる光弾性を利用しての材質本体の変形挙動認識の為の、竹・木質材料の造影に、鉱石の偏光、さらに塗料などの用途があり、一部の放射性をもつものもあり体に有害である、なお諸説ある伝聞ゆえの情報ゆえにさらなる仔細は不明であり、一部は後述の話とごったに伝えられている模様で注意が必要。 

 そして作曲者本人の伊福部氏も北大で木質材料 の振動(建材および航空機がらみか?)の測定の放射能体に変調をきたしており、北大にて林学を志し、そして林務官になった氏が、趣味の作曲へ職務を転向する契機になった。 


 なお氏の振動研究の片鱗は、音楽においても氏の管弦楽法の教科書に楽器の波形の倍音的な特性を言及ある記述や、当曲を含めす氏楽曲の器楽法に弦楽器の特殊奏法多様、はたまた、一躍有名された特撮映画「ゴジラ」での、チェロの音を歪ませた音で「怪獣の咆哮」の音響効果への監修等に伺える次第。 当時の情勢と照らし合わせると明らかに戦時の物資不足の打開を目論む由来での、新材料の開発に軍部からの発破がかけられてた事情が伺える次第。
(*2)戦後に渡辺は芥川氏の同曲の演奏会のプログラムに、野人の作曲の根底の由来が、表向きの表題を実は無縁であったかのような随筆を書かれており、フォンテックのライヴ盤で拝読できるが、本人は何ら意識していない文章ながら、芸術文化の戦中の祭り上げられたかを推し量ることが出来て面白い

 曲は、本人がスコア上で明言する悪化する戦局での管弦楽の人員の確保の困難を受けて2管編成(一部持ち替え)の小編成で作られており、戦局の悪化によると理由はあるが、巨大編成の日本狂詩曲の次の、近作の土俗的三連画の室内管弦楽編成の成果を踏まえた例もあり、これは前作ピアノと管弦楽協奏風交響曲の肥大、複雑化した編成と構成の不評を受たことと関連も一因があるのではと邪推もされルル次第にて候。

構成は第一と第二の譚詩からなっており
第一はアレグロ・カプリチィオーソとなっており、最初に桶の一撃のあとすぐに提示される主要主題は四拍子に三拍子と二拍子交差複合するリズムで、楽章中何度か表われ、曲の構成の主幹をつかさどる。それは常にリトミックで土俗的な性格をもっているが楽章ごとに微妙なアクセントのズレと管弦楽の違いを与えられており、氏の主題展開がストラヴィンスキーや師匠ティレプニンのような小節単位での細胞的な動機のプログラッシヴにあることが伺える、それらの主要なと主題の間に叙情的だったり、非常に野蛮な副次主題の推移が挟まれる構成概要をもつ、そして韻律においても、日本古謡の音階を教会旋法的な拡張を目指す傾向が現れ、時にプロコフィエフの使用するような白鍵盤での全音階的な主題などの主題も使われ、さらに七や九度の和声解釈での三度累積のハーモニーの幅のあるヴォイジングなどが顕著になり、前作で萌芽を形成した後年の音楽スタイルが昇華し、確立したことが解る。
 第二は、アンダンテ・ラプソディコであり二回の序壊急の構成を持つ楽章であり、前の楽章より内省的な音楽である、そのプロセスは冒頭の多オーボエの憂いあるソロから、弦楽の日本情緒ある歌が流れ、管弦楽で盛り上がり、最後の幾分リトミカルなオケの土俗的盛り上がりでオケが雄たけびを上げるというものであり、二回幾分の相違を経て繰り返され、最後にトランペットに導かれた冒頭のソロ回想にて深遠の沈黙を獲て終わる次第にて候。

 それらの管弦楽は前述の通り弦楽器の特殊奏法としてはハーモニクスや開放弦、バルトーク・ピチカート(駒板に弦を当てるように弾く)、引弓による重音など多用、そして打楽器ではティンパニーのバチの種類や方法そして、叩く場所の些細な文字指定があり、そのほか目立たないが常に多くの器楽が何らかの補強するような挙動を示し、小編成の管弦楽から多彩な音色と、音量を多く獲ようとした作曲家の配慮が伺える次第にて候。

これはストラヴィンスキーの火の鳥の1910年とその後の組曲1919-1945改訂や、ペトルーシュカの1911と1947の改訂を彷彿させるものであり、その和声や構成の簡素な整合性追従は師匠チェレプニン(*)の指導の賜物であることは想像に難くない。

(*)なおチェレプニンはモスクワ時代に生徒の一人であったプロコフィエフにおいても亡命直前にハイドンのフォルムでピアノを一切使わないオーソドックス発想で曲を作れないのかと挑発的ともとれる提言をしており、プロコフィエフが古典交響曲を書く経緯になったと伝えられる、恐らく彼がいち早く、春の祭典の外見で誤解されがちな、ストラヴィンスキーの音楽の緻密な書法主義の側面を見抜いていたところがあり、それらを安易に模倣肥大化した音楽を嗜好する弟子に、傾向、流布徹底させていたことも窺い知れる。
演奏としては1984年に外山雄三がNHK交響楽団とおこなった日本の管弦楽作品集での収録が非常に均衡のある演奏を行っており、

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録音の安定もあり、円海山的にはファーストチョイスとしてきき、その後、より作品の共感に満ちた初演者の山田一雄ステレオ再録音

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や弟子の芥川氏の演奏を聞くことで作品の存在する位置推し量りながら聞くことで、

伊福部昭:管弦楽選集
伊福部昭 / / フォンテック
ISBN : B00005EZTX

この曲の後半に拡散しゆく構成のなどの扱いの相違を大いに楽しむことができると、所見さるる次第。
 ただ細部としては芥川氏の演奏では録音レンジが狭く、ティンパニーなどの特殊奏法不徹底がるように見受けられ、それなりの割り切りは必要ではある。

たしょう仔細については、気が向いたら続編にて。

なおスコアは近年ポケットスコアにて発売がある。
OGT-302 交響譚詩
伊福部昭 / 音楽之友社
スコア選択: ★★★★★
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by dr-enkaizan | 2007-06-24 10:24 | 解説のない音盤紹介