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六国峠@ドクター円海山の音楽診療室-無用な営みの、えも言われぬ、この上なき喜び

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ジェームス・レヴァイン ストラヴィンスキー/春の祭典

ストラヴィンスキー/春の祭典 ジェームス・レヴァイン/メトロポリタン歌劇場管弦楽団

当曲の演奏でこれほど、スコアに書かれた音を無駄にすることなく、なおかつ即物的にしかし抑制とは無縁に引き出した、
いや?というより放り出した演奏はめったにない次第にて候。
 それは、春の祭典の理想を求めるカルトな響きへの妄執が実願したかのような、趣であり、本来はある程度抑えるべきすべてが白日に晒されすぎて、受け取る側が飽和する感覚を引き起こし、
あまりに乱雑・未整理*にも誤解されかねない状況を呈し、演奏の充実にも反して、世評は軽んじられている次第。

 *確かにテイクは少ない録音で、あいまに演奏者の雑音なども入ることから一発取りの長いテイクが想像され、録音場所のアコスティークも悪いところで、音盤の作られ方も含め乱雑な部類には入る。ジャケッドデザインも風忍調のサイケトランスアート調でありこれも一因か?

 しかし、との巧みな音色はそれらの批判では見逃しており、多くの理想的一例がいくらでも指摘できることがある、たとえばトラック20の冒頭から「敵対する村との戯れ」の最初のティンパニと弦楽のずれた刻みにと、フレーズが交差する箇所での、ティンパニに合わせられたテューバのバランスは絶妙であり、メーター旧録音やストラヴィンスキーの自作自演ステレオなどのテューバやその逆のデービスやブレーズなど、両者の存在のいずれかにクローズアップされる演奏に付きまとう不自然はなく、ティンパニーの音に被せられた必然的音色音量の意義すら感じさせる次第である。

 今回鎌倉スイス先生の春の祭典トピックのコメント途上で推奨せずはいられなくなり、トピックする次第。
 昨今のレヴァインの注目の低さは・・氏のプライベートの様々な要因?や、一時アカデミーな話題の中心たる、主要オケから外れて、しかもレコーディングから遠ざかった要因もある。さらに確かにフランス近代辺りの音楽では、かなり厚ぼったい印象も否めないところであり、表情を深くとってはいないがグラママラスな音が鳴っているあたりであり、さらにロマン派以後はその裏付けは昨今の学術系の歴史的裏づけという、怪しげなトレンド的擬似音楽史的実証想定のような刺激的な付加価値もない、旧世代の意義の範疇にとどまるとさえとも、認識されてしまっている現状であるのも事実で・・・・・情報媒体の発展の結果、今の聴衆が感傷的要素、上記刺激要素にどっぷりかぶれ、常に安定している豊穣な音を求めていない傾向で、個人的な嗜好で安易に聞きところらしき印象を操作流布するなか、なかなか平均的に鳴らすレヴァインの玄人的な傾向に刺激を見出せないあたりもある。特に日本ではその傾向が強く陰鬱に、もしくは異形に突出した特長がありがたがられるのとは袂を分かつ傾向にある。故に氏の演奏の斯様さが・・・・・
 深みや憂いや影という日本人的感性の極北であるのは確か。しかし、昨今の未達成水準の演奏を、印象操作交じりを?マイナーであることを新味覚と誤解する向きにはこの演奏を再度深く聴いて、何たるカを思い出してもらいたいこと事趣味がスノップする向きに警鐘しておきたい次第にて候。
 奔放を嫌うを良とするのが蔵人の好事の証としている勘違いしている輩が多いが・・・さにあらずや?
 ストラヴィンスキーの鐘楼発言を捩って語るとしての、レヴァインの春の祭典の意義は?スコアのメティエこそ突かれるべき鐘楼の鐘であることを、もう一度思う起こしてほしい主張に他ならない。感じるのは自由だが、つき方が悪い鐘楼の音は遠くまで聞こえないことも事実にてござ候。

 このことはこれの前に1977のペトルーシュカですでに萌芽があったがそれはいずれの機会に。
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ジェームス・レヴァイン ストラヴィンスキー/春の祭典


1992年録音で輸入版がそして来日記念として同演目を含む
1993年にリリースされた音盤、しかも同曲の国内演目はさらにラヴェルのボレロを演奏した記録され、このオケの底力は
フィラデルフィアやシカゴの豪腕を頂点にされるアメリカオケだが、裏方にてもデフォルトこれぐらいはやってのけることを知らしめるものにて候。
1993年6月3日:サントリーホール
ムソルグスキー/展覧会の絵
ストラヴィンスキー/春の祭典
ラヴェル/ボレロ
あなおそろしや、実演見聞した人はコメントキボンヌ

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by dr-enkaizan | 2009-02-08 02:15 | 解説のない音盤紹介
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