ブログトップ

六国峠@ドクター円海山の音楽診療室-無用な営みの、えも言われぬ、この上なき喜び

drenkaizan.exblog.jp

レスピーギの「ローマの松」の時代雑感

 前回取り上げてているレスピーギの「ローマの松」の書かれた時代のイタリアは、年代で追うと?実に興味深く周辺の作曲家・文筆・政治家の活動が見られ、作品の傾向の一端をになっていたかのような、シンクロを感じる次第にありなん。

 レスピーギローマ三部作の最初のローマの噴水(1916)を発表して、酷評を受けた翌年1917年、彼の母国イタリアも参戦した第一次世界大戦が終結する。

 この参戦を国内に鼓舞し自ら義勇軍を組織して、参加し、話題になる活動をしたのが、私事のトラブルにてフランス亡命帰国した詩人・小説家のヌンツィオ(1863~1938)であった。

 この詩人・小説家のテクストでは亡命中のパリで仕事の『聖セバスチァンの殉教』(1911)が現在も、その担当を余儀なくされたドビュッシーの音楽とともに知れ渡っている。

 当時のパリ講和会議にてイタリアは第一次世界大戦の戦勝国でありながらも、国土に国益や権利は名誉的要素を除き、何らも恩賞ある結果が導かれない状況にあった。

 1919年9月それらを憂いた愛国者であった詩人は、その戦役での活躍と経験により、より強固なものになった国家主義的立場をもとに、復員軍人にての黒シャツ姿の服装での義勇兵を率いて、条約においてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国に譲渡されるフィウメを占領しそれを、イタリア正規軍が鎮圧するという出来事を起こした。

 のちにこの黒シャツという、服装と独自のによるローマ帝国時代の模倣的な礼儀作法、とアジテーションの手法は、ムッソリーニにより多くが模倣され、フィウーメでの憲章を含めでファシストの先駆的行動といわれている。

 このフィウーメでの詩人の行動は、我が日本に於いても、70年代に起きた、三島由紀夫の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地占拠割腹自殺でのバルコニーでのアジテーション行為のモデルともなっているのは、かれが池田弘太郎と共に『聖セバスチァンの殉教』を邦訳しことセットで周知の通りである。
 その翌年1920年にレスピーギは、話題さめやらぬと思われる時期に、渦中の詩人のテクストにて4つの詩(1 夢 2 ナイアデス 3 夕べ 4 古い歌に寄せて)作成しているあたりに、ダヌンツィオの行動に対する愛国主義的な行動への道義的な共感がとも邪推さるるが、ここでは飽くまでも仮定の話ではあると留意されたし。

 しかしながらレスピーギそれ以前にも1909年ごろに二つある歌曲集にも、ダヌンツィオのテクストを幾つか使用していて、そのころ詩人が1910年に債務でパリへ一時亡命しており、それに呼応しているかはさだでないが、この1920年の歌曲集において再びレスピーギ使用するまで、テクストとしては久し振りの使用であるのがこの仮定の意味深さを際立たせている。

 そして詩人はレスピーギの同時代人で80年代派と括られるマリピエロそしてカッセラとともに、近代イタリア音楽普及のための音楽団体「イタリア新音楽協会」を組織する次第で、イタリアのオペラ中心の音楽事情から打開として、古楽~バロックの音楽の復興、そして器楽音楽の発展を中心に愛国的なイタリア復古主義の活動を音楽にまで広めていく、丁度イタリア未来派の活動を阻むかのごとく後ろ向きであり、ジャニコロの松でのレコード導入にヒントをもたらしたルッソロらの雑音音楽での未来派の活動も言及したいが今回は80年代派に筋を戻すと・・・。
 それは時にローマ三部作の二作目のローマの松の作られる一年前1923年であり、同年にレスピーギはローマの聖チェチーリア音楽院作曲法科教授の地位に就く。

a0007939_0442216.jpg


Malipiero: Inventioni; Vivaldiana
バロック期の書法を近代的語法をもって静寂に再構成した観のある作品群が聞ける。
ヴィヴァルディアーナはその活動の一端をしめすものであり、レスピーギの鳥あたりと比べると物凄い地味ではあるが、フランス的語法を経て到達していた境地をことさら感じるものにて候。
a0007939_0282887.jpg

Casella: Paganiniana; Serenata; La Giara (Symphonic Suite)
当作曲家はフランスに学び、若き日は、ラヴェルの同人集団アパッシュのメンバーであり、春の祭典のストラヴィンスキーと親交をもち、初演も経験しており深く傾倒していた、そして、当時のウィーンのマーラー~シェーンベルクの音楽にも興味を示しており、マーラーの七番のピアノ編曲なども最近知られている、大戦後はストラヴィンスキーのあとを追うように新古典主義へ転進しており、この音盤はそうした新古典の時期の作品ながらも、一部は春の祭典を彷彿させる三度形の和音の不協和な低音のリズムではじまるタランテラや、レスピーギのジャニコロと近親であり、その和声の地中海的雰囲気ではギョスタ・ニーストレムの第三交響曲と中間の先駆になるようなアリアなどが聴ける。

 さらに同時期にやはりイタリアバロックに慧眼し、近代書法も吸収し作曲ならびに教鞭をとり1923年に、ミラノ音楽院院長に転出したピツェッティも、ダヌンツィオの戯曲のための劇付随音楽を多く担当しており、器楽復古によるイタリア音楽へ愛国的復興活動を志し、次第愛国的風潮に迎合しており、のちの1940年代にはファシストと交わりを含め、日独伊三国同盟の象徴的出来事の、「皇紀2600年奉祝曲」にて交響曲イ調を日本献呈することが広く知られてゆく。
関連記事
ピツェッティ/「ピサの少女」&「夏の協奏曲」

 レスピーギ自体は「ローマの噴水」で会得具合が解るようなフランス近代の印象派と呼称された、書法に加え、それ以後の1917から当年1923に至り、バロック以前のイタリアの古楽や、グレゴリオ聖歌の教会旋法に触れた故の書法的影響もしくは、再構成する作品など発表すつずけている次第であり、それはまさにイタリアの第一次大戦後の愛国的なイタリア復古主義の活動にむかわせ、フランスの近代音楽と別の方向を模索しようと心境を想像させるのは容易でもあるが、どうも社会的な国家主義とファシズムの風潮の芸術的が無視できないのは必然の結果でもありなん。

 これらはこの80年代楽派は時に新古典的あったり、ロマン主義であったり、一部のパリで学んび、10年代のエポックナ進化を体感しての恩恵たるモダンな書法と様々であるが・・・レスピーギの作品と微妙に相互影響をもたらしており、昨今レスピーギの単体での捕らえ方より80年での周辺をして捕らえる必然が、好事の方々に囁かれている。

 そして、80年代派のイタリアの作曲家の各位、モンテヴェルディやフレスコバルディそしてヴィヴァルディにイタリアのバロックまでの古楽や教会音楽を研究しており、それぞれ新古典主義やロマン主義に近代音楽的な模索を国家的風潮を加味しながらも進めてゆく。

 そののちファシズムで後進参加して急進的になる独逸のカールオルフも、同様のイタリアの古楽の研究を進めていき、独自のリトミック論理と近代管弦楽を駆使して「カルミナ・ブラーナ」を発表する14年前の鼻先にて候。

と、「そのとき歴史は動いた」みたいなところで区切りをつけて続く。

次回はこれとは違う一度過去に遡り和声の影響の源泉を、ドビュツシーの前奏曲集やストラヴィンスキーの三大バレーに見てみたい次第。

なお80年代楽派の音盤をここに追記予定。
[PR]
by dr-enkaizan | 2007-03-11 04:25 | クラシック
<< てんとうむしちゃんはエロかわい... グレツキを出されるとキラールを... >>