鎌倉スイス先生のブログの休止、そしてノンセクトラディカルな毒性のつよい親父の小言がいかしている
社怪人日記2006さんの活動凍結など、各位の休止からかなりたつが、周辺を冷静にみるとネット黎明期から活躍しているサイトは過去形のものが多く、その当時の活躍している人物も、矢面にたっているケースは稀になりつつある次第。
さてこの円海山も休止的な活動状況ゆえになんともいえない立場だが・・・・・。
多少淋しい思いをしていることも考慮に、スパンを置いてでも潔くなく活動を進めて欲しい次第なのだが。
不特定多数の見て評価を下し、コメント欄にておもむろに批判および非難そして批評をこうむらなければならない要素のある媒体での配慮に疲弊しての顚末と診断さるる次第にて候。ゆえに多くの電脳に在する書き手の一部はソーシャルの道を歩み、その不特定多数への道から背を向けているのも頷ける次第にて候。
かつての商用ネットワーク時代にあった、特定者技術の情報機器ハードルを越えて一般家電になってパソコンとインターネットは公道状態であり、それらゆえに、上記の安心が望まれる時代へ移行しているのは商用ネット時代の「悪しき」排他的状況が、実は「安心」への免疫防衛機能だったことに他ならないとも愚考さるる次第だが・・・・・なんとも複雑な気持ちを持たせる時代逆行振りでありなん。
以前から思うことには、要するに自己主張や表現らを受ける掲示板的要素には「敷居」が必要であり、それらはブログの書き手や掲示板なら管理者の運営方針が、個人に基いていることを流布させるに相応しい、キャラクタリゼーションと理論であり、掲示板での場の流れのもって行き方などがそれに相当するのでは思われる次第にて候。
今回惜しまれつつも休止に至った長寿掲示板も「不用意に門徒」を広げ余りに議論の低下を防げないことが、最大の要因でもあり、上記の敷居の概念の問題をさらに感じさせる事となる次第にて候。
あくまでもブログや掲示板は選択の余地があり、読み手が合うと思われる言説に応じればよいわけであり、それ以外にものに断罪の批判やネガティブなコメントを行う行為は、余りに反社会的なものそしてモラルの欠如に対する対象ならいざ、またそれ自体、むしろブログ側としては感嘆に削除するか排除することが出来、揶揄や、話題性にもってゆける有効なネタになりつうあり、その行為をする側の思惑とは別の方向に向かうこともあり、本人にとってはあまり効率の良い行為ではない。そうした光景も多数見てきたが大概は「略」あつかいになるおは必至なのである。
このことは今後団塊の世代がネットに参入して、ネットの文法を知らずに同様の行為をし始めると予想されるゆえに急増する恐れがあり、今後と注意が必要になる事項と診断したところで、筆を置かん。