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六国峠@ドクター円海山の音楽診療室-無用な営みの、えも言われぬ、この上なき喜び

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ギョスタ・ニューストレムの交響曲第3番「海」シンフォニア・デル・マーレ

世の中知られざると珍曲をそろえた気になるのも一理あるが。
円海山的世代にしてみると昨今の知られざるはコマーシャリズム支配されているのではと思い割れること多し。

そんな知られざる領域にまだ存在するであろう、スエ-デンの近代作曲家ギョスタ・ニ-(ニュー)ストレムの交響曲第3番「海」
などを・・・・・
Gösta Nystroem: Sinfonia del mare; Sinfonia Concertante
Erling Blondal Bengtsson Gosta Nystroem Stig Westerberg Nordiska Musikforlaget Sveriges Radiokorkest / Swedish Society
ISBN : B0000061P8
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Nystroem: Sinfonia Del Mare
Swedish Rso/Westerberg/Soderst / Swedish Society
ISBN : B00004UUUC

この作曲家はスエーデンからパリへH・メルケル・メルケルス H. Merlcher Melchers (1862-1961) の勧誘で留学し印象派と呼称されるドビュッシーやラヴェル周辺の語法を吸収し、さらに六人組的モダニズムや表現主義的な手法も意識にしれた作風を培っていった者であり。
また時に、内地生まれながらも海の憧れがつよい彼は、地中海やイェテボリでその半生を海の傍にて暮らし、副業に画家的な仕事も嗜み、そのせいか?リリシズムの点では絵画的表現をもった作風の音楽が特徴的な次第であり、さらに海の題材を好んでとりあげるおこと多く、当交響曲もエッバ・ルンドクヴィストの詩「海へ」?にインスパイアされた当曲は、あらゆる海への思いとニ-ストレム自身の地中海アナカプリの海あたりの海の思い出などから想起した心象風景にて候。

ちなみに中間でルンドクヴィストの
荒れる海から逃げて地上に戻るも、やはり海へ戻る海運業関係の(笑)人の歌詞
「ただひとつこと」がうたわれる。

最初は序奏にて、暗い海鳴りを思わせるテンパニ-のトレモロのかすかな音の増減から始まるのですが、そんな中に弦楽が静かに問いかけのような短いフレ-ズを繰り返管楽器へ受け継がれ・・沈んだとても侘しい、淡色色彩の様相を示す、その斯様なる箇所は実に絵画的手法たるもの。
やはり作者の画家であることを留意せざる得ないところがあり、大変魅力的な次第。
その雰囲気の想起は、個人的には中原中也の「海には・・・」の詩などが浮かびそれは・・「沈んだ暗い慟哭のような海」たるモノト-ン、

しかしそ次第に劇的に盛り上がり、春の祭典のこだまが聞こえるような気弦楽の刻みに導入され、激しいモダニズムの手法の行進曲に変化するあたりは、雲行きの怪しいところから、次第に気圧が下がり嵐になるような厳しい海の様相を先の静寂で孤独な海からの連続で自然を眺めている作曲家の着想の豊かさの印

ともかくある意味イベ-ルのそれと通じるような、険敷くも暗い海の表情であり申すが、しかし決して女々しくなく勇ましい行進れ波を進むような楽想は、あの辺のバイキングの末裔といったら安易な発想なれども・・・・・ともかくオネゲルやプロコフィエフ的にて、フレ-ズにはドデカフォニックなところもある荒れるだけ荒れまくった音楽が続く次第。

それが収まってくると、一転静かにオ-ボエの孤独ニ満ちた古謡の旋律が演奏され、これは先の部分にてすでに予告セル物にて、その変容振りは海の表情の変化そのものの如し也。

そしてハ-プやセレスタなどかソロの弦楽器と対話しているうちフル-トが入るあたり日が射すが如し和音が弦楽から現われ、弱音器トランペットでかすかなハイライトがつけられホルストの惑星の金星のそれを思わせる、上方に広げられた和音弦楽の刻みが木管に移り広がりを受けたところで、ソプラノがカンタ―ビレに弦楽による開放的和音組織がメインのオケをバックに、全体を支配するアルカイックな上向きな音の動きによるメロディー「我 愛欲から疲れはててよみがえること無きものの如し今海より逃れたり」の意の歌詞で朗々と歌われる。

現われオケは非常に一瞬開放的な美しさに満つる、まあ雲がきれ青空でものぞいたようでな様なれど、微妙なニュアンスで進み、そして淡々とレスピ-ギのジャニコロのような四度累積を展開して下に三和音の開放展開にした、静かな暖かい海の上を裸足であるかのような伴奏でソプラノがミファソで始まるなんともいえないメロディーで「しかし我は後に再度戻り、地上にて只一つの事知らねばならぬこと訪れるは確か」と静かに歌う。
楽節の後方で下降する際にファに#入りドリア風の節回しになるスカンジナビア風味はこの曲が最高のリリシズムを持ちうることを意味しえるものに候。
なお伴奏の弦楽は前述のレスピーギのジャニコロ風の開放の和音上にアルト音域で二音を後ろ引っ掛けの初分音符四つ単位のオスティナート的に揺らし、多少の解決緊張を与える刺繍進行であり、カッゼラあたりの管弦楽曲に類例のある効果ある裏味的引き締めある叙情を獲得している

そして次の節では先のカンタービレで準備されたリディア風のアルカイックなフレーズで
「して、愛するものなく己一人で暮らすなれば
全てが無に営みが帰する如し、故に我は知る」とうたい、管弦楽はヘテロフォニックな対旋律とリリシズム溢れる高音域の木管の和音や旋律添えてくる。

さらに多少わらべ歌風のド・シ・ソのテトラコルド風の音組織主体リフレーンになり
「森の中の晴天の日
今我が聞きし小鳥囀りを」
と歌いだし、低音に弦楽のピッチカートオスティナートしして高音にヴァイオリンや木管のトリルがその小鳥のさえずりを暗示する。

その状況が一瞬途切れたときに冒頭のミファソで始まるフレーズでソプラノが
「海から吹いているそよ風のために、我喜んでそれ諦めん」と歌い、管弦楽がそのフレーズの後ろをクラリネットで引っ張る一音からリディア風の部分から同じプロセスを色彩豊かな管弦楽で浚い、この曲最高の美しいクライマックスを形成する。

、そして再び嵐の楽想に戻り
曲は悲劇的様相オ帯び、そしていずれ少々曲はは落ち付いた盛り上がりの様相を示し、ここではオネゲルの典礼やプロコフィエフの交響曲六番といった同時期のエコ-がきかれるようになる。

もしかすると1946から1948に作曲されたことを考えるとこれらの勇ましいくも不吉な楽想は「戦争」なを示唆する可能性がある次第、そして再び曲は盛りがり頂点を見せた後冒頭の静かな弦楽フレ-ズへクラリネット二本の孤独な対話を前置きに戻りそしてハープの和音へ来て海鳴りへもどる。

 まあ当方には、大昔のNHKのFMを聞いて以来思い出深い曲、丁度そのころの前後自転車なんぞで若宮を避けて緑豊富な佐助方面ルート行った由比ガ浜などを思い出してしまうという。本来の曲とは少々違う印象などもあり困ったもの・・・・
しかしこの曲は「横浜」に先のトピックにあるように」須賀田礒太郎が妄想し、フランス音楽周辺の音楽の模倣で交響詩を想起したように、あの「唯一つの」ことは「内陸から海へ向かい最後は砂浜へ裸足であるかのような感覚」での普遍性に対して個人的風景として、上記由比ガ浜迄のルートのBGMとして心には鳴り響くところもある結果に至っているという次第であり各位のそんな風景で各々の海を考えることが全ての海への全曲の意図なのかも知れないと愚考。

いずれにしてもあの楽章は海へ行きたくなるような、音楽による海へ誘いなのか・・・・。
この演奏は毎度おなじみエリーサベト・セーデルストレム(S)/スティグ・ヴェステルベリ指揮ストックホルム放送交響楽団
Swedish Society SCD-1015 
まあCD化でLPの暗い緑の海のジャケットから一変して、明るいタンカ―は浮いている水色の靄の海には戸惑いを禁じえないが・・・面白い。
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現在はこの形でリリース
http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=626294

このほか「海に寄せる歌」
なども紹介したいですが今日は是までで・・・・・・

06-08-01追記:あの御仁が遂にブログに参戦発見
Kせんせブログ

ニューストレム「海の交響曲」
うーんー この知識の妄想に裏付けられた電波なる面白どうしてくれようか・・・(-^m^-)””””
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by dr-enkaizan | 2006-07-03 01:30 | 解説のない音盤紹介
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