さて前回のエッシェンバッハのパリ管弦楽団のラヴェル
「夜のガスパール」の続きを唐突に・・・・まずは「オンディーヌ」から
そもそもベルトランの詩をラヴェルに教えたのは、同時代の理解者のスペインからのピアニストのリカルド・ヴェニスによるものである、このフランス近代音楽の功労者の「ピアニスト」は先のショーソンにもかかわり深い画家の「ルドン」などとも知り合いであり、ルドンの書いた肖像も存在しその友好の程を知ることも出来る。
そのルドンの作品などの幻想性などに著しく顕著ながら・・・・それらのフランスの芸術家たちをを夢中にさせた「ボードレールやマラルメが流布・紹介したエドガーポーの幻想小説」など当時の「パリ」には、東洋趣味に、観察的博物学の体系化の成果の流布台頭する傍ら、前世紀の「オカルティズム」に到るであろう幻想と怪奇が、地下水脈のような根底の畏怖として残りつつ「文化の先端」を揺り動かしていたのは確かな次第。
この辺では薔薇十字会に参加していた影の恩師「サティー」でなども一例として挙げられ、その作品の一部(星の息子)をラヴェルか管弦楽に編曲もしていたという記録もあるのは興味深い現象ながら本筋とは外れるのでこの辺で。
さて、ラヴェルも当然それらの中に身を置き、ポーの怪奇小説に夢中になり(ジェルタン=モンランジュ記述)ときに「街道裏の夜道」をあるくのは「サチュロイ」が出るから「怖い」とおどけてみせ、斯様な古への忘れられていた詩人ベルトランの「レンブランドとカロ風の幻想」(*)と副題添えらるる「夜のガスパール」を詩から音楽へ創造するもの也。
(*)注目すべきはマーラーの「巨人」第三楽章の葬送にも酷似して副題があり
最初のオンディーヌは意外に知られていないことに、技巧的な器楽の的音響効果の塊のような楽曲の根底の構成には一種のソナタ形式による骨子があり。それは、まるで怪奇を暴くかのようなその書法的趣向の眼差しでラヴェル見据えるところでの「オンディーヌ」が時に無邪気に、時に怪しく振舞う自由すら、形式のギミックで表出することは、当作曲者の「スイスの時計職人」とストラヴィンスキーに言わしめ、ドビュッシー「かつて無い鋭い耳」と評された「エリクチュールと「ソノリティー」二つの側面の完全な融合を成しえた唯一無二の価値を此処に知らしむるもの也。
これはラヴェルのアルカイズムの特異性の特徴が顕著に現れた一つであり、当曲の古典的均衡と官能的な旋律と響きの両立においても、そのアルカイズムが宗教的な清楚ではない中世的幻想での怪奇やロマン主義的な夢幻などのファンタジー志向に結びついていることの、音楽での具象とも想像する次第、それは塩をもって現世に神が具現したように、ラヴェルは不確かな幻想を音楽の書法技巧で具現したということに他ならない次第にて御座候。
したがって、コンスタンにより管弦楽曲になったこの編曲ではスケルツオで終わる交響曲のようになると思えば・・・・それに反してあくまでも何処から現れ何処へ消え行く感じは変わらないあたりには、実はラヴェルの曲自体の上記エリクチュールの発想が編成を超えた強固なものであることが推測される次第にて候。
スカルボのアポワジュールな効果的部分が金管でその背景のオクターヴのトレモロは弦楽というあたりのモノクロームなどはその一例か?
無論エッシェンバッハの演奏にもその辺の節度を守る素晴らしさがあり、現在のニュートラルなパリ管弦楽団の状態にもそれが適合して中々な出来栄えに結びついたと所見もさるる。
さてオンディーヌのエリクチュールと「ソノリティー」二つの側面の完全な融合はさら追従続行する次第にて候(づつく)暫し待たれよ